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ポルトガル王国の栄光 ・ 夢の海上帝国

みなさんこんにちは。

大航海時代の最初の立役者エンリケ航海王子亡き後、ポルトガル王国はどの様な道を歩んだのでしょうか?

エンリケ王子が亡くなった1460年の時点で、王国は彼の甥ですでに立派な大人に成長していたアフォンソ5世の治世にありました。彼はなかなか好戦的な王で、1474年にモロッコに派兵し、かつて父王ドゥアルテ1世とエンリケ王子が失敗したタンジールをはじめ各都市の攻略に成功。父や叔父たちの果たせなかったモロッコ制圧を果たします。

AfonsoV-P.jpg

上がアフォンソ5世(1432~1481)で、アヴィス朝3代(ポルトガル王としては12代)国王です。一連の勝利に酔った彼は、同じ年隣国カスティーリャ王国の王位争いに介入し、カスティーリャ王位を狙って2万の軍勢を率い、カスティーリャに侵攻します。しかし1476年ポルトガル軍はカスティーリャ軍に敗れて撤退し、彼の目論みは失敗に終わります。アフォンソ5世は失意の内に4年後亡くなりました。

その後を継いだのが息子のジョアン2世(1455~1495)です。彼は父の外征で一時停滞していた大叔父エンリケ航海王子の海外探検事業を継承して、遠征隊を各方面に派遣します。そしてその隊長であった家臣、バルトロメウ・ディアス(1450?~1500)がついにアフリカ南端の喜望峰を回り、インドへの海の道を開く事に成功します。

JoaoII-P.jpg

480px-Bartolomeu_Dias_Voyage.png


上がジョアン2世とその家臣ディアスの喜望峰までの航跡です。彼の時代にポルトガルはインド洋に進出しました。しかし一方であの有名なクリストファー・コロンブス(1451?~1506)が彼に援助を願い出た時は、イタリア人の彼に対し「自国の者でないから信用出来ない」と言って拒否してしまい、結局その後の新大陸での巨大な利権をスペインに取られてしまう結果を招いてしまいます。

1492年イベリア半島におけるイスラム勢力の最後の牙城であったグラナダ王国が滅亡し、すでに統合されていたカスティーリャ・アラゴン両王国を合わせてスペイン王国が誕生。(同年コロンブスが新大陸に到達しています。)ポルトガル王国はこの新生スペイン王国との間で両国の海外権益の境界を定めた「トルデシリャス条約」を結びます。

Spain_and_Portugal.png

上が両国の勢力範囲の境界を定めたトルデシリャス条約の図です。この条約は内容を簡単に言うと、上の図の紫の点線を境にして西の南北アメリカはスペイン、東のアフリカ、インド、アジアはポルトガルのものとするというとてつもないものでした。しかしジョアン2世が新大陸でのポルトガルの取り分が不公平だとローマ教皇に訴え、その結果ポルトガル領を若干広げて修正したのが紫の線になります。(後に地球が丸いと言う事実に鑑み、境界線が一本では一周して重なってしまうから意味が無いという理由から、サラゴサ条約でもう一つの境界線が引かれました。それが緑の線です)

ジョアン2世の死後、その従弟であるマヌエル1世が王位に付きます。彼は前王の海外事業を継承し、ヴァスコ・ダ・ガマ(1460?~1524)を指揮官に任命してインドへ艦隊を差し向けました。そしてガマは喜望峰を回り、1498年ついにインドのカリカットへと到達します。

Retrato_de_Vasco_da_Gama.png

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Vascodagama.jpg

上が彼とそのインドへの航路です。エンリケ航海王子の死から38年を経て、ポルトガルは長年の悲願であったインド航路を確立したのです。ヴァスコ・ダ・ガマはこれらの功績により国王マヌエル1世から貴族に列せられ、伯爵号と2つの町を含む領地、莫大な年金などを与えられ、その後に得た貿易利権も合わせてポルトガルでも5本の指に入る大富豪になったそうです。

それからのポルトガル王国は南米からアフリカ、インド、東南アジア各地へとまさに破竹の勢いで進出していきます。

1500年 13隻のポルトガル艦隊(兵力1500)がブラジルに到達、これを占領。
1502年 ヴァスコ・ダ・ガマをインド洋派遣艦隊司令官に任命。20隻の艦隊でインド洋へ出発。
1507年 東アフリカ各地に要塞建設。
1510年 インドのゴア占領。
1511年 香辛料の一大産地マレー半島のマラッカ占領。
1513年 ポルトガル人、初めて中国の広東に来航。
1518年 インドのセイロン島コロンボに要塞建設。 
1524年 ヴァスコ・ダ・ガマ率いる14隻(兵力3千)のインド洋艦隊ポルトガル本国を出発。
1526年 ヴァスコ率いるポルトガル軍、インドのカリカット占領。


そして1543年ポルトガル人は日本の種子島に漂着し、わが国に鉄砲を伝えた事はあまりにも有名ですね。(「いごよみな戦変わる」なんて語呂合わせで年号を覚えましたね。)そして南蛮貿易が始まり、彼らによって日本人がそれまで見た事も無い様々な西洋の文物がわが国にもたらされます。

650px-NanbanCarrack.jpg

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上は当時の日本人が描いたポルトガル船と商人の姿です。(黒人の姿も描かれていますね。)そしてこの時代に日本を訪れた最も有名なポルトガル人(生まれはスペイン北部の滅んだナバラ王国ですが後に移住)が宣教師フランシスコ・ザビエル(1506~1552)です。こうしたポルトガルとわが国との関係は、1639年に江戸幕府の鎖国政策によってポルトガル船の来航が禁止されるまでおよそ100年近く続きました。

484px-Franciscus_de_Xabier.jpg

上は教科書で有名なザビエルの肖像画で、誰でも一度は目にした事があるでしょう。彼は元々はスペイン・バスク地方の裕福な地方貴族の息子で何不自由の無い身分の出でしたが、イベリア半島で絶えず繰り返された争いを目の当たりにし、キリスト教に深く帰依して聖職者になった人です。ちなみにこの肖像画は一見すると西洋の画家が描いた様に見えますが、実際は西洋の画法を学んだ日本人の狩野派の絵師によって江戸時代初期の1620年代に描かれたものだそうです。

さらにポルトガルは1557年に中国のマカオに居留地を建設、1999年に中国に返還されるまでここを支配し続けました。最終的にポルトガルが支配した地域は下図の様になります。

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これを見ると、ポルトガルの海外進出は後のスペインやイギリスの植民地政策と大きく違い、南米のブラジルを除いてはほとんど海岸部の拠点支配に限られていますね。この理由はポルトガルが香辛料などの中継貿易が主流であり、港と居留地、それらを守る艦隊や守備隊の駐留する要塞があれば充分であった事と、当時のポルトガル本国の人口が130万余りしかなく、この人口では海外に派遣出来る兵力はせいぜい2万程度で、軍を各地に分散配置する以上拠点支配にならざるを得なかった事が挙げられます。

かくしてそれまで誰も想像した事もない「夢の海上帝国」がここに出現しました。ポルトガル本国には毎年張り巡らされた交易ルートを通じて世界中から集められた金、宝石、香辛料、象牙、陶磁器などの交易品が送られ、商人たちはそれらをヨーロッパ各国に売りさばいて莫大な利益を得ました。そしてこの時代に国王であったマヌエル1世は、ポルトガル王国絶頂期の王としてその運の良さから「幸運王」の名で呼ばれています。

次回に続きます。
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