豊臣家と徳川家の財力・兵力の比較(後編)

みなさんこんにちは。

今日は前回に続き、家康と徳川家の財力について考えてみたいと思います。

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家康は、当初は財力、兵力において秀吉よりはるかに劣ります。
そもそも徳川の本拠地である三河と、かつて徳川の前身松平家を支配していた今川家亡き後の遠江、駿河は、この3国合わせても70万石程度(内訳は三河29万石、駿河15万石、遠江25万5千石、太閤検地の時点の石高)しかなく、その後武田氏滅亡後に侵攻して併合した甲斐、信濃(同じく甲斐22万7千石、信濃40万8千石)を入れても、この頃の石高はせいぜい133万石余りでした。この時点における彼の保有兵力も、最大3万程度と思われます。

家康が秀吉よりも財力が弱かった原因はなんでしょうか? それはやはり両者の生まれと育ちが大きく影響しているからではないかと思われます。秀吉は日本史上最大の出世男ですが、元は貧しい農民の子であったのは皆さんも良くご存知ですね。彼は十代後半に家を飛び出すと、織田信長の草履取りに召し抱えられるまで諸国を流れ歩き、その間に出合った様々な人々(その多くが旅の商人)との交流を通して商いや金儲けの方法、どうすれば品物を安く仕入れ、最も高い値で売りさばいて最大の利益を得られるのかといった商売の基本を学び取っていき、つまり若い頃のそうした経験と、プライドばかり高いが硬直化したガチガチの思考しか出来ず、しがらみの多い武士出身ではなく、「農民出身で途中から商人育ち」という自由奔放な経歴が、お堅い武士が考え付かないような独創的なアイデアで思考出来る豊臣秀吉という稀有な人物を生み、それが彼のその後の天下取りに大きく役立っていったのです。

これに引き換え家康の方は、東に遠江、駿河を本拠とする名門今川家、西には豊かな濃尾平野を持つ尾張の織田家に挟まれた小国とはいえ三河の領主松平家の当主でした。つまり当然の事ながら、れっきとした生まれながらの一国の大名です。

武家出身にして、しかも一国のお殿様なのですから、戦の兵法や領地の統治、小難しい思想的学問は知っていても、商売や金儲けの事など知る由もありません。ですから秀吉に出会う以前の家康にとっては、例えばいざ戦という時に備えての軍資金の確保の方法といえば、とにかく普段から質素倹約して出費を抑える、領民たちから出来るだけ多くの年貢を納めさせるなどといった、誰でも考える様なオーソドックスなやり方しか思いつかなかった様です。(それが、後に徳川家康という人を、失礼ながら「ドケチ」と呼んでも過言ではないほどの極度の倹約家に育てていく事になったのですが、これについては後述します。)


しかし、さすがは徳川265年の太平の世を築いた大人物です。 家康は秀吉に出会ってから、秀吉の巧みな商業政策と、彼が進めた金銀を中心とする貨幣流通経済、そのための全国の鉱山開発と、それを全て直轄領として支配、全ての金銀を豊臣家に集めるシステムを熱心に研究し、やがて秀吉の死後、家康は秀吉の政策をほとんど踏襲して実践していきます。そしてそれはそのまま彼の開いた江戸幕府においても基本政策として引き継がれていったのです。

さて、家康の試練は続きます。小田原攻めの後、秀吉から北条氏滅亡後に空いた関八州に国替えを命じられ、形の上では133万石から255万石への大幅な加増でしたが、長年苦労して広げた元の領地を全て手放して、当時はまだ何も無い荒れ果てた湿地帯に過ぎなかった江戸の地に、一族家臣全てを引き連れて移り住む事を余儀なくされたのです。

関東255万石なら、家康の方が秀吉の222万石より多いから、兵力も秀吉より多いのではないかと思われるでしょうが、秀吉の場合は前編でお話した様に、全ての家臣に領地を分け与えた後の、秀吉個人のものであったのに対し、家康はこの石高から家臣たちに領地を与えるので、それを差し引いた実際の彼の取り分はおよそ100万石ほどでした。この時期の彼の直属の兵力も3万余りであったと思われます。

「捲土重来を計る」 と言えば聞こえは良いですが、自らの居城も城下町も、全てを一から築いていかなくてはなりません。もちろんそれらにかかる莫大な費用は全て家康持ちです。これは明らかに家康の力を削ぎ、疲弊させる秀吉の巧妙な家康封じ込め作戦でした。

後に家康は、大坂の陣の数年前から、秀頼に父の莫大な遺産である金銀を浪費させるために、「亡き秀吉の供養」と称して数多くの寺社の修築をさせるなど、その抜け目の無い周到なやり方と、彼の容貌とを掛け合わせて 「悪賢い古ダヌキ」 とか言われる様になりますが、もともとこの様に相手に金を使わざるを得ない状況に仕向け、敵の財力を削ぐ手口を最初に仕掛けたのは秀吉の方だったのです。

もちろん秀吉は、家康以外の他の有力大名たち(毛利、島津、上杉、伊達その他)にも、様々な手段で多額の出費をさせています。(秀吉の晩年の隠居城である「伏見城」も、これらの大名たちの財力を削ぐために、不必要なまでに豪華絢爛に造らせたものです。秀吉による天下統一によって、これらの有力大名たちは隣国との戦いを禁じられました。これにより大名たちは領国を広げる事は出来なくなりましたが、同時にそれは彼らに、戦に備えた軍資金を蓄えさせてしまう時間と余裕を持たせてしまう事になったからです。)これは全て、大名たちに自分とまだ幼い息子秀頼に対し、謀反を起こす軍資金を蓄えさせない様にする秀吉の戦略でした。

晩年の秀吉には、もはや息子秀頼の事しか見えていませんでした。

自分はもう先が長くない。なのに後継ぎである最愛の息子秀頼はまだ全くの幼児です。そのため彼は、秀頼の将来を脅かす恐れのある(と彼が勝手に考えた)全ての者を排除しようとします。当初後継者にしていた甥の関白秀次を、謀反の疑いをかけて切腹に追い込み、秀次の幼い息子たちを含め一族39人を処刑したのは有名ですね。


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この豊臣秀次(1568~1595)という人に関しては、「殺生関白」などとあだ名される様に、乱行の数々を犯した愚か者と長い間言われて来ましたが、近年の研究では、和歌や読書を好み、知識と教養を兼ね備えた文化人であり、伝えられるような残忍な人物ではなかった様です。但しまだ若者でしたので(享年28歳)若さゆえの性急さから時には我がままに振舞う事もあったかも知れません。それが彼を、「太閤秀吉に背いた謀反人」という悪者に仕立てるために、あまりにも誇張されてしまったのではないでしょうか。

またそれ以外にも、秀吉は秀頼を可愛がるあまりに

「お拾い(秀頼)に歯向かう者は、この秀吉がすぐに飛んで行って叩き殺してやろう。」

と笑いながらも恐ろしい言葉を吐き、周囲の人々を震え上がらせたそうです。


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豊臣秀吉と、その一族について詳しくお知りになりたい方は、上の本が良書です。歴史ファンなら誰もがご存知の司馬遼太郎先生の作品の一つで、上の秀次以下10人の豊臣一族にまつわる物語です。秀吉の立身出世に伴い栄華を極めた彼ら豊臣家の、束の間の繁栄と没落、そして滅亡。戦国時代の最後に彗星のごとく現れ、そして消え去った豊臣家の悲運を、それぞれの人々のエピソード毎に描いた名作ではないでしょうか。上の本は角川文庫版でページ数は520ページ、こちらの方が価格が安いのでご紹介しましたが、若干高い価格で中公文庫からも出版されており、ご興味のある方でどちらを選ばれるかはお好み次第と思います。

話を家康に戻します。
太閤秀吉の死後、内大臣ならびに五大老筆頭として実権を握った家康は、天下分け目の関が原の戦いに勝利し、一気に天下人の地位に躍り出ます。そして負けた西軍の大名たちの所領を没収して自分に味方した配下の大名たちに分け与えました。

この時取り上げた領地は没収分415万石、減封分(石高を減らした分)208万石、さらに豊臣家が全国に持っていた蔵入地157万石を合わせ、合計780万石にもなりました。当時の日本全国の総石高がおよそ1851万石であったそうなので、実に42%もの領地を自由に出来た事になります。自らの石高もそれまでの255万石から、一気に400万石へ増やし、さらに豊臣家が持っていた全国の金山銀山の権利と金銀の上納を停止。代わりにそれらを全て自分が手にしたのです。これにより、それまで弱かった徳川の財政は一気に好転し、この時点における彼の直属の兵力も最大8万近い大軍になりました。(江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団、いわゆる「直参」を、旗本8万騎と言うのはこの頃決められた様です。)

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戦国大名の勢力範囲の推移などを詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。応仁の乱から関が原の戦いに至る各家の勢力範囲が詳細にカラーで載せられています。ページ数は95ページで、戦国史の研究がご趣味の方には何かの資料用に最適ではないかと思います。

さて、逆に豊臣家はそれまでの222万石から、前述の蔵入地を奪われた結果、大坂城周辺の直轄領である河内、摂津、和泉3カ国65万石(正確には65万7400石)余りに激減しました。依然大大名ではありますが、一大名に転落した事は事実です。

「織田が突き、羽柴が捏ねし天下餅、座りしままに、食らう徳川」

天下の代替わりを示す、読み人知らずの歌ですが、これを見ると、まるで家康が何の苦労も無く、ただじっと待つ事で天下を手中に収めたかの様に思えますが、織田と羽柴(豊臣)には散々悩まされ、苦労させられた挙句にやっと手にした天下だったのです。

その後、1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた家康でしたが、その2年後にあっさり将軍職を息子秀忠に譲り、自らは「大御所」と称して天下を動かしていました。しかし依然として豊臣家は彼にとって脅威の火種です。亡き太閤秀吉の息子である秀頼はこの時まだ十代の少年であったものの、巨大な大坂城の奥深くで大切に育てられ、すくすくと成長していたからです。

さらに大名たちの中には、今だ豊臣家に忠誠を誓う者が多く、毎年年始の挨拶などでも、驚くほどたくさんの大名が大坂城に登城して、秀頼に頭を垂れていました。規模は小さくなっても豊臣家の威光は、今だ輝きを失ってはいなかったのです。

実は諸大名にとって、秀吉と家康の二人を比べた場合、付き合って楽しいのはどちらかといえば、圧倒的に秀吉の方でした。

その違いは何と言ってもその人柄と気前の良さでしょう。秀吉は生来の豪快さゆえか功績の大きい者には惜し気無く領地を与え、例えば誰かを招いても、手ぶらで帰す事はせず、贅を凝らした宴を催し、豪華な食事でもてなした上、有り余る金銀や高価な茶器などを土産に持たせたそうです。

これは彼の人心掌握術だったのでしょうが、その効果は絶大でした。とにかく行けばくれるのですから誰でも喜びます。それを繰り返すうちに秀吉の「人たらし」の術にうまく取り込まれ、気が付けばすっかり彼の虜になってしまうのです。

少し誇張した言い方かもしれませんが、食うか食われるか、殺伐とした戦国の世を生き抜いて来た大名たちの多くは、限られた領地の収入も、領国維持やいつ起きるか分からない戦に備えた出費ですぐに消えてしまい、贅沢などする余裕は無かったはずです。そんな彼らにとってささやかな楽しみといえば、せいぜい土地の産物を三品ほど並べた膳の前で、自分の奥方や子供たち、忠実な家臣らと、田楽の踊りなどを眺めながら酒を飲む程度が関の山だったでしょう。

そんな暗黒の時代が、秀吉の天下統一によって終わり、秀吉によってもたらされた平和と、大名たちがそれまで見た事も無い巨大な城や、数々のきらびやかな美しい文物、豪華な宴、美しい女たち、あふれんばかりの酒と料理。振舞われるまばゆい金銀。わずか10年に満たない豊臣政権下で花開いた華麗な桃山文化。それらを直に体験した者たちは、

「あの頃は良かった。」「あの時は楽しかった。」

と、かつて秀吉の下で過ごした夢の様な時間、目の当たりにした豊臣家の栄華を、秀吉亡き後も今だノスタルジックに忘れられなかった者も多かったのです。


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反面家康の方はどうかと言うと、彼はこの点では全く秀吉には敵いません。

実は知っている方もいると思いますが、徳川家康という人はかなりの吝嗇(りんしょく)つまり「ケチ」なのです。良く言えば倹約家なのですが、彼は秀吉と大きく違い、人に物を与えるという事はほとんどありませんでした。功績のあった大名や家臣は、手紙や口頭で盛んに褒めちぎっています。(タダですからね。笑)しかし彼らが最も欲した領地や金銀を与える事はしませんでした。(例外は前述した関が原の戦いの後の論功行賞ですが、これは敗れた西軍の諸大名から没収したものを分け与えてるので、家康自身が領地を割き与えたのではありません。)

これは他の者たちに力を持たせない様にするのが目的だったのですが、子供時代に人質に出されてから、常に彼を苦しめた数々の苦労が、この様な人物にしてしまったのでしょう。ですから家康の人生において、華やかなエピソードというのはほとんどありません。

それからもう一つあるのですが、良く大河ドラマなどで、名だたる俳優さんが演じている家康は、とても饒舌に喋っています。(ドラマだから当たり前ですが。笑)しかし、実際の家康はかなり無口な人だった様です。

「何も言わぬは言うよりまし」

と誰かが言ってますが、こういう所も、人質時代の肩身の狭い思いや家臣の裏切りなど、彼の人生を振り回した様々な出来事が、「余計な事は言うまい、喋るまい」という用心深い人間性を生んだのでしょう。

またここからはあまり語りたくない話ですが、家康は自らの子供に対しても好き嫌いが激しく、とても実の父親とは思えない冷酷な部分があり、特に双子であったという理由で他家に養子に出された次男の結城秀康と、(当時双子は「畜生腹」と呼ばれ、不吉だと忌み嫌われていました。理由としては相続争いの元になりますし、また瓜二つの同じ顔が同時にあるという事が気味が悪いという事の様です。)色黒で顔立ちが醜いからという呆れた理由で終生最も嫌い、92歳の長寿を全うしながら生涯の大半を流人として過ごした六男の松平忠輝は有名です。

ここで、秀吉の忘れ形見である秀頼について触れておきます。


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豊臣秀頼(1593~1615)は太閤豊臣秀吉晩年の子として生を受け、子宝に恵まれなかった秀吉の異常なまでの溺愛を受けました。(秀頼は秀吉の三男に当たるそうです。長男は信長の家臣時代に夭折したと云われ、関白になってから生まれた次男鶴松も3歳で病死。無事に成人したのは彼だけでした。)

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(豊臣秀頼と大坂の陣について詳しくお知りになりたい方は、上の2冊の本が良書です。1冊目の方はページ数は257ページですが、この本の目玉は大阪の陣の豊臣軍の兵力の細かい内訳などが図表に載っている点で、戦史兵力研究がご趣味の方などに良いと思います。また2冊目はページ数214ページで、これまで母親の淀殿の言いなりの気弱な「マザコン」の様に描かれる事の多かった秀頼が、父太閤秀吉の後継者、豊臣家当主としていかに徳川と関わり、天下に君臨しようとしていたか?その実像について迫る非常に興味深い作品です。)

秀吉の死後十数年、世は徳川のものとなり、大坂の一大名に転落しても、他の有力大名とは違う別格の扱いを受けて存在していました。ちなみに上の画像は良く知られた彼の画像ですが、実はこれは秀頼がまだ少年期(元服前後の14歳頃?)に描かれたもので、大人になった姿を描いたものではないそうです。

大人になった秀頼の画像(と伝わる肖像。上でご紹介した秀頼の本の、下の1冊の表紙です。)もあるにはあるのですが、黒い装束に横を向いたアングルの悪い姿で顔が判然としません。そのため良く大河ドラマなどに登場する秀頼は、細くて眉目秀麗な若い俳優さんが演じていますが、これは上に載せた、こちらの有名な方の画像のイメージでキャスティングされているからでしょう。

しかし実際の秀頼という人は、彼に会った複数の人々の残した記録によれば、何と身長195センチ、体重160キロもある大変な巨漢だったそうです。(まさにお相撲さんですね。)

そのため当時から、本当に秀吉の実の子なのか?と影で言われていたそうですが、母親の淀殿が身長170センチほどあったと言われ、(男性の平均身長が160センチに満たない時代に、女性でこれだけ背が高かったのですから、失礼ながら淀殿は気位も高いが背も高い「大女」だった様ですね。)その父浅井長政も長身だったそうなので、母方の血を受け継いでいるとすれば、彼がこんな大男に成長しても、なんら不思議は無いでしょう。

また太ってしまったのは、単純な推測で恐縮ですが、若さゆえの食べ盛りと、日々の学問以外にすることが無く、また生まれてからほとんど大坂城を出た事が無かったので、城内で体を動かす事もあまり無かったからではないでしょうか。(後の大坂夏の陣で、真田幸村以下の浪人衆が、総大将として秀頼に、城外への出陣を願い出たのに彼は出て来なかったので、「秀頼は臆病者」というイメージで語られて来ましたが、事実はこの体重のせいで、馬に乗れなかったからだとも言われています。)

しかし父の秀吉がそうであった様に、人は外見ではありません。

1611年に家康と秀頼が、京の二条城で初めて対面した際、すでに立派な若者に成長していた秀頼と言葉を交わした家康は、彼の堂々とした物怖じしない話し方と、普段の学問で培った教養の深さに、「秀頼はかしこき人」と評しています。そしてこの時に、最終的に豊臣家を滅ぼす決断をしたといわれています。

「御所柿は、一人熟して落ちにけり、木の下にいて、拾ふ秀頼」

これはこの時京の都に広まった落首ですが、家康が、将来大人物になった秀頼が、老い先短い自分の亡き後、結局天下を握るのではないかという恐怖心にかられたのも無理からぬ事です。 何より秀頼にはそれを可能にする軍資金となる、亡き父太閤秀吉の残した莫大な金銀と、今だ衰えぬ豊臣家の威光がありました。

家康は豊臣の財力を削ぐため、秀頼に多くの寺社の修築を勧めます。この辺は良く知られた話ですね。では秀頼は、この時どれくらいの金を使ったのでしょうか?

まず、秀頼が造営、修築した寺社の数ですが、全部で85にのぼり、中でも最も金をかけたのが京の方広寺で、これだけで45万両も使っています。なぜここにこれだけかかったかと言うと、奈良や鎌倉を凌ぐ、巨大な大仏を建立したためです。それ以外の寺社については記録が無いのですが、総額100万両以上は使っていると思われます。もちろん使った分は、秀吉の遺産も減りますが、秀頼には領地からの年貢収入以外に、父の残してくれた大きな財源がありました。

関が原の戦いの後、豊臣家は65万石の一大名に転落し、全国の金銀を産する鉱山も失いましたが、豊臣家には大商業都市大坂の商人たちから徴収する、多額の上納金がありました。これは秀吉が造ったシステムで、豊臣家が独自に徴収していたため、家康も押さえる事が出来無かった様です。石高に換算して、毎年6~8万石になり、これを合わせると、秀頼の石高は実質70万石を越えていました。

多くの寺社の修築に大金を使った結果、一時的には金銀は減りますが、京や大坂は一大建築ブームで好景気となり、それらで大儲けした商人たちから、また上納金として戻って来るので、家康が目論んだほどには豊臣の財は減らず、あまり痛くは無かった様です。

何より秀頼が最も金を使ったのは、やはり二度に渡る大坂の陣でしょう。存亡がかかっているのですから当然です。まず最初の「冬の陣」の時に、秀頼が秀吉の金銀をばらまいて集めた浪人衆はおよそ10万。この数字は良く知られていますね、但しその支払い方法は大判小判ではなく、下の画像の様な分銅金(法馬金)と呼ばれる、大量に備蓄されていた巨大な金塊(重さ333キロの二千枚分銅金とその半分165キロの千枚分銅金の二種類がありました。千枚、二千枚とは大判に換算してという意味で、千枚なら1万両ですね。)を鋳潰して、さらにそれを竹の筒に流し込んだ「竹流し金」というものを配っていました。


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これらは「捨て扶持」(すてぶち)と呼ばれ、もちろんそのままでは買い物も出来ませんから、浪人たちはこれを両替商に持ち込んで、小判や銀に替えるわけです。また、一人当たりの割り当ては、意外にも貰う側の浪人たちの言い値で決められていた様です。しかし、これから戦になるのにあまり多く持っていても邪魔になりますし、また金というものは非常に重いので、暗黙の常識で一人当たり1、2個といった所ではないでしょうか。

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上の画像は昭和10年(1935年)に大阪城周辺の大川で、「シジミ取り」をしていた老人が偶然発見した竹流し金の実物だそうです。(重さは約100グラムほどで、価値はおよそ7両、現在の金額で70万円余りだそうです。この竹流し金は、現在大坂市北区の造幣博物館3階の展示室に、前編でご紹介した天正大判や明治期の各種金貨とともに展示されており、近くにお住まいでご興味のある方は立ち寄られてみてはいかがでしょうか。ちなみに入場料無料ですよ。)

さて、先ほど秀頼が集めた浪人衆の数がおよそ10万と言うのは有名だと言いました。そのためか大坂冬の陣の豊臣軍の総兵力は10万とされる事が多いのですが、実はこれ以外に、秀頼にはとっておきの予備戦力がありました。

それは「七手組」と呼ばれる豊臣家主力部隊、いわば秀頼直属の親衛隊で、その名の通り七人の侍大将を指揮官とするおよそ1万の精鋭部隊です。秀頼の石高は65万石ですので、それから割り出した豊臣家正規軍は、この七手組を主力として約2万。これに先に述べた浪人軍団10万を合わせ、総勢12万余の大軍でした。

さらに秀頼は、これらの大軍がおよそ1年半は籠城出来るだけの大量の兵糧米を買占め、そのため家康率いる徳川軍は、食糧不足で飢えに苦しみました。(こちらは総勢20万ですから、これらの兵を食わせるのはもっと大変です。戦をしなくても腹は減るわけですから。ちなみにかつて徳川軍が陣を敷いた地域の発掘調査では、牛や馬の骨が大量に見つかるそうです。恐らくこれらは飢えに苦しんだ徳川方の兵たちが、荷車を引かせた牛や、籠城戦ではあまり必要の無い騎馬隊の馬を殺して食べた名残でしょう。)

豊臣家の財力と兵力について、分かっている数字は今の所このくらいです。大雑把過ぎていい加減だと思われてしまうかも知れませんが、これには理由があります。実は大坂夏の陣で、豊臣は徳川に大坂城もろとも「焼き滅ぼされた」という表現が妥当で、その際に書庫にあったと思われる記録や文書も、みんな燃えてしまったからです。

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しかしもう一つ分かっている数字があります。二度に及んだ大坂の陣で、秀頼らの奮闘空しく滅び去った豊臣一族(といっても、淀殿と秀頼、彼の息子で側室に産ませた8歳の豊臣国松と6歳の姫の4人だけで、このうち最後の姫だけが生き延び、出家して天秀尼「てんしゅうに」となります。)ですが、大坂城の焼け跡からは金2万8千枚(28万両)、銀2万4千枚(24万両)、合計52万両もの金銀が発見され、幕府によって回収されています。あれだけ使ってまだこんなに残っていたとは、いかに豊臣の財力が大きかったか分かりますね。

最後に、家康が息子秀忠にどれだけの金銀を残したかご紹介しましょう。

これについてははっきりした数字があり、家康が1616年に駿府城で75歳で亡くなった時、城内の御金蔵に蓄えられていたのがおよそ200万両であったそうです。これはかつて家康が秀吉の死後、混乱に乗じて伏見城から持ち去った分に、その後支配した全国の金銀山から産出した分を加えたもので、まず半分の100万両ほどを秀忠が相続し、残りを紀伊、尾張、水戸などの御三家で分割相続した様です。

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その秀忠が亡くなった時、息子の三代将軍家光が相続した遺産は366万両あり、秀忠の在世中はおよそ40万両の赤字であったそうなので、秀忠が家康存命中から分与されていた分や、大坂城の焼け跡から回収した豊臣の金銀その他を含めると、家康が秀忠に残した金銀は約400万両余りであったと思います。

後編終わり。
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テーマ : 歴史
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