ポルトガル王国の没落 ・ 繁栄の終わりと衰退の始まり

みなさんこんにちは。

東洋の香辛料貿易その他を独占し、一大海洋王国として空前の繁栄を謳歌したポルトガル王国でしたが、その繁栄の時代は16世紀後半に終焉を迎え、それ以後は緩やかに衰退の道を歩みます。一体なぜポルトガルはその様な道を歩む事になってしまったのでしょうか?

その原因は三つあります。一つ目は香辛料(スパイス)貿易の衰退です。

前回ポルトガルがいかにして東洋の香辛料を独占入手したか、その概要をお話しましたが、ポルトガルがインド航路を開拓する以前、これらの香辛料貿易は「アドリア海の女王」「水の都」といわれた地中海最大最強の海洋都市国家ヴェネツィア共和国が独占していました。しかしヴェネツィアの香辛料はオリエント地方の陸路を経由して運ばれるため仲介者が多く、その都度仲介手数料が上乗せされるために最終的な売値は原価の20倍近くに跳ね上がる高価なものでした。(それでも他に入手先が無いのでヨーロッパ諸国はその高い香辛料でも喜んで買って行き、ヴェネツィア繁栄の源になりました。)

Spices_in_an_Indian_market.jpg

しかしポルトガルのインド航路開拓で新たに入手先が増えると、ヨーロッパ諸国ははるかに安いポルトガルから香辛料を買い入れるようになり、ヴェネツィアの優位は崩れ、反対にポルトガルが「我が世の春」を謳歌します。

16th_century_Portuguese_Spanish_trade_routes.png

ヨーロッパ人の香辛料への欲求はさらに高まり、売る側も買う側も人々は同じ事を考え始めます。「もっと欲しい。もっともっと」と、そこでポルトガル人たちは原産地から香辛料の苗木や種子を、気候や環境が似た支配地域の各所に植えて栽培し、収穫量を爆発的に増やして行きました。おかげで供給量や入手先が増えましたが、これが裏目に出てしまいます。

香辛料が原産地以外の各地で収穫出来る様になった結果、収穫量が増えすぎて供給過剰になり、さらに入手先も増えたので価格の大幅な下落を招いてしまいました。つまりポルトガル人たちは欲張りすぎて「希少価値」で成り立っていた香辛料価格を自らの手で下げてしまったのです。

そうこうしている内に、ヴェネツィアの逆襲が始まります。彼らはそれまでアラビア半島などの陸路を経由してコンスタンティノープル(現イスタンブール)から入手していた香辛料を、紅海経由の海上輸送でエジプトのアレクサンドリアから入手する事にしたのです。

Italy_to_India_Route.png

上の画像をご覧ください。これにより陸路による仲介手数料を大幅にカット出来、香辛料の価格をポルトガルよりも下げて売っても利益が出る様になったのです。(ただしかつての様な大儲けが出来なくなったのはヴェネツィアも同じでしたが。)

ポルトガルの香辛料貿易は、自らが招いた香辛料価格の大幅な下落により利益が大きく減り、東洋に派遣する船団の維持費用や乗組員たちへの支払いなどの経費を勘案すると、利益の少ない割に合わないものになってしまっていました。

二つ目はポルトガル王家の断絶です。

当時それまでポルトガル王国を治めていたのはアヴィス王朝という王家でした。そしてそのアヴィス朝7代国王(ポルトガル王としては16代)が下のセバスティアン1世(1554~1578)という若い王でしたが、彼はその若さゆえか国政よりも外征を好み、南米リオデジャネイロ占領、アフリカのアンゴラ征服と領土を広げ、さらにモロッコにおいて今だ勢力を保つ、イスラム勢力サード朝の王国とモロッコの支配権を賭けて1578年会戦しました。(アルカセル・キビールの戦い)しかし彼の「軍事的冒険」は完全な失敗に終わり、王自身が戦死してしまいます。

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上が戦死したセバスティアン1世の肖像とアルカセル・キビールの戦いを描いた絵です。彼は1万7千の兵を率いてイスラム軍と戦いましたが惨敗します。絵を見ると分かる様に弓形に待ち構えるイスラム軍によって完全に包囲殲滅されてしまった様ですね。

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戦死したセバスティアン1世はまだ24歳で独身だったので後継者がおらず、王位は上に載せた大叔父のエンリケ枢機卿(1512~1580)が暫定的にエンリケ1世として即位しますが、そもそも聖職者である彼も独身で当然彼にも子はおらず、すでに高齢だったのでアヴィス朝の断絶は時間の問題でした。(そのエンリケ1世も2年後に亡くなり、アヴィス王朝は8代約200年余りで終わります。)

301px-King_PhilipII_of_Spain.jpg

アヴィス王家の断絶でポルトガル王位は空位となり、亡きセバスティアン1世の伯父に当たる、上に載せたスペイン・ハプスブルク家の国王フェリペ2世(1527~1598)が1581年からポルトガル王を兼ね、「同君連合」という形で事実上ポルトガルを併合してしまいます。(といってもフェリペ2世はポルトガルの全てを奪ったのではなく、王位を兼ねただけでポルトガルのその他の国家機構はそのまま存続を許され、同じカトリック教国である以上ほとんど変わりは無かった様です。)

このスペイン・ハプスブルク家による支配は1640年までおよそ60年ほど続き、本来の指導者がおらず、ポルトガルがこの期間に停滞している間に、スペインを始め、オランダ、イギリスと、新興の海洋国家が次々と世界の海の覇権を争う様になって行きました。そしてポルトガルがブラガンサ家を新たな王家として王政復古し、スペインの支配が終わって独立を取り戻した1640年には、これらのライバル国家によって、もはやポルトガル一国では到底太刀打ち出来ないほど世界中で熾烈な植民地獲得競争が繰り広げられていました。これが三つ目の理由です。

こうしてポルトガル王国の「栄光の時代」は、1498年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓から1578年のセバスティアン1世の戦死までのわずか80年余りという、短くも儚いものとして終わりを迎えたのです。そしてその後のポルトガル王国を待ち受けていたのは、新興海洋国家とのせめぎ合いの中で、徐々にその影響力を失い、緩やかに衰退してかつての「ヨーロッパ最辺境の一国家」へと没落して行く姿でした。

次回に続きます。
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