ポルトガル王国の復活 ・ 王政復古と繁栄への努力

みなさんこんにちは。

60年に及ぶスペインの支配を経て、1640年に王政復古して独立を果たしたポルトガル王国は、前王朝アヴィス家の分家であるブラガンサ家を新たな王家として迎え、第8代ブラガンサ公ジョアン2世(1604~1656)がジョアン4世として推戴され即位します。

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上がジョアン4世です。彼に始まるブラガンサ王朝の王たちは、前王家アヴィス朝が進めたインド、東南アジアなどへの東洋進出で得た各地の拠点から徐々に撤退し、アフリカ、南米ブラジルの植民地支配を強化して、かつての栄光と繁栄を取り戻そうとします。(その理由は距離が遠すぎて支配地の確保が困難な事と、ポルトガルがスペインに支配されていた間に新興勢力のオランダ、イギリスなどがすでにこの地域に進出して広大な植民地を形成しており、これらと戦っても国力が疲弊するだけと判断したからです。)

独立後のポルトガル王国の最初の敵は、これもスペインから独立して海洋国となっていたオランダでした。(当時はネーデルランド共和国といいました。)ポルトガルは1661年に、オランダによって奪われていたブラジルの一部を賠償金を支払う事で取り返し、代わりにアフリカのアンゴラのポルトガル支配をオランダに認めさせる条約を結んでこれを決着させます。

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上がアンゴラの位置です。さらにポルトガルは、1680年から南米における領土をめぐってスペインとの長い戦いに入ります。(本国での戦争ではなく南米での戦争です。)この戦争は1750年にスペインとの間で最終的な領土の線引きが成されたマドリード条約が結ばれるまで70年に亘って続きました。この結果、ポルトガルは南米におけるブラジルの領土を大幅に増やす事に成功し、ほぼ現在のブラジルの国境線が決められます。

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南米で広大な植民地獲得に成功したポルトガルでしたが、ポルトガル本国はスペインからの独立戦争の際に国土が荒廃し、復興を急ぐために国を上げて全土でぶどうとオリーブ栽培を促進したのでワインとオリーブオイルの生産が増大し、それらを売る市場を求めていました。そこでその最大の買い手、すなわち取引先となったのがイギリスで、1703年に当時のイギリス大使ジョン・メシュエンとポルトガル政府との間で「メシュエン条約」が結ばれます。

この条約の内容は、ポルトガルはイギリス産毛織物の輸入を受け入れる代わりにイギリスはフランス産ワインより低い税率で(つまり優先的に。)ポルトガル産ワインを輸入するというものです。これによりポルトガルは富と外貨を産み出す最大の産業としてワイン産業が盛んになりましたが、イギリスからの毛織物の輸入はそれ以上であり、実際はいわゆる「不平等条約」に近いものでした。(この時にイギリスへ輸出される様になったワインが下に載せた「ポートワイン」で、普通のワインと違い発酵の段階でブランデーを加えて作る、甘口ですがアルコール度の高いワインです。)

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上は現在は観光用に展示されているポートワインの樽を載せた運搬船です。当時はこのような船で湾内に停泊するイギリス行きの大型船に積み込んでいました。当時の港の活気あふれる姿が想像出来ますが、これによりポルトガルはイギリスに対して頭の上がらぬ従属関係となってしまいます。(つまり親会社と下請け会社の関係ですね。)

1696年にはブラジルのミナスジェライスで金鉱が発見されてゴールドラッシュが発生し、アフリカのアンゴラの黒人奴隷を酷使して大量の金がポルトガル本国に送られますが、これらの富もその大半が支払いなどでイギリスに流れてしまい、ポルトガル国内では王家や貴族の宮殿の装飾に使われる程度でなんら産業を生み出しませんでした。

この時代のポルトガル王はジョゼ1世(1714~1777)といい、ブラガンサ朝第5代国王(ポルトガル王としては25代)でしたが、国政の全てを宰相カルヴァーリョ(1699~1782)に任せたので、ジョゼ1世が亡くなるまでポルトガル王国はカルヴァーリョの独裁下に置かれます。

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上が国王ジョゼ1世と下が宰相カルヴァーリョです。彼は「独裁」とはいっても大変有能な政治家で、1755年にポルトガルを襲って10万人の死者を出したリスボン大地震の時もいち早く復興に尽力し、それによってリスボンの街は、下の画像の様に整然と区画された都市として復興を遂げました。

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宰相カルヴァーリョの働きに満足した国王ジョゼ1世は、さらに大きな権限を与えて彼を重用しますが、自らは国政に関心を示さず狩猟や芸術に没頭していたので(つまり遊んでいたのです。)宰相カルヴァーリョは政治、経済、軍事、外交の全てに辣腕を振るいましたが、これを快く思わなかった貴族たちによって1758年にジョゼ1世暗殺未遂事件が起こります。

ジョゼ1世は危うく難を逃れますが、宰相カルヴァーリョはこの事件を口実として貴族階級の大弾圧と粛清に乗り出します。千人以上が逮捕され、主だった貴族が処刑、投獄、追放されました。さらに事件に教会も関与していたとして、イエズス会の国内外の財産を全て没収し、関係者を国外追放しました。(これは彼にとって政敵である大貴族たちや古い体質の象徴であった教会の排除と、彼らの持つ莫大な財産を没収する事で、地震の復興費用を捻出するという一挙両得を狙ったものでした。)

命拾いをしたジョゼ1世は益々腹心のカルヴァーリョに心酔し、1770年に彼に侯爵位を与え、以後彼はポンバル侯爵となります。そして遅れていたポルトガルの工業化に着手しますが、その矢先にパトロンである国王ジョゼ1世が亡くなり、その長女であるマリア王女がマリア1世(1734~1816)として即位すると、貴族たちへの行き過ぎた弾圧で彼を嫌っていたマリア1世はポンバル候を宰相から解任し、それだけでなく「女王から20マイル以内に近づいてはならない」という勅令まで出されて失脚してしまいます。(いかにも女性らしい、いささか子供じみた勅令ですね。相当嫌われた様です。ただポンバル侯自身はすでに高齢であった事もあり、領地の豪華な館で静かに余生を過ごし、5年後に亡くなります)

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上が女王マリア1世です。父王ジョゼ1世には王子が生まれず、4人の王女の長女であった彼女が1777年に「ポルトガル王国初の女王」として即位しました。彼女はポンバル侯爵の政策を基本的には踏襲しつつ、行き過ぎた部分は是正しながら統治していきますが、即位から12年後の1789年、フランスで全ヨーロッパを震撼させる「大事件」が起こります。そしてこの「大事件」を契機にポルトガル王国は歴史の大きなうねりに翻弄され、前代未聞の選択を迫られる事になるのです。

次回に続きます。
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