ポルトガル王国の危機 ・ ナポレオンとの戦いとブラジルへの脱出

みなさんこんにちは。

父王の元で独裁権を振るっていたポンバル侯爵を宰相職から解任した(つまり「クビ」にした。)ポルトガル王国初の女王マリア1世は、個人的にポンバル侯を毛嫌いしてはいたものの、その政策などはおおむね踏襲し、さらに拡大発展させ、またヨーロッパ各国との貿易も好調で、特にイギリス向けのポートワイン、ブラジル産砂糖の輸出などで(砂糖はこの頃からイギリスで「紅茶」を飲む習慣が広まったためです。)女王の治世の最初の10年余り、ポルトガル王国は好景気に湧いていましたが、その束の間の繁栄も長くは続きませんでした。

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上がマリア女王と王配ペドロ3世夫妻です。しかしマリア女王自身の家庭生活は不幸が続きました。彼女の即位後数年の間に、母、夫ペドロ3世、長男ジョゼ王子が相次いで亡くなり、それ以前に次男と三男も生まれてすぐに亡くしています。そして1789年、さらに追い討ちをかけるかの様に大事件が発生します。フランス革命の勃発です。

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上は国王軍を打ち倒してテュイルリー宮殿になだれ込むパリ市民。下は平民に変装して脱出しようとした所を市民に見破られ、逮捕されるルイ16世と王妃マリー・アントワネット、その幼い王子たちです。

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これは全ヨーロッパを震撼させる出来事でした。あのヴェルサイユ宮殿を中心とする絢爛豪華な絶対王政のシンボルであり、王家の中の王家として常にヨーロッパ中の君主の憧れの的であったフランス・ブルボン王朝が、外国にではなく事もあろうに自国の民衆による革命で倒され、国王一家が逮捕幽閉されたのです。

この事件は度重なる家族の死で病んでいたマリア女王の心に大打撃を与えてしまいました。「マリー・アントワネットの様になりたくない。もし革命がポルトガルにまで及んだら・・・」という恐怖心にかられ(これは彼女に限らず全ヨーロッパの君主が同じ思いだったでしょう。)極度の緊張と不安から現実と妄想の判断の区別が付かなくなり、1791年ついに彼女は精神に異常をきたして政務を執ることが出来なくなってしまいました。

やむなく女王の四男で後継者のジョアン王子が摂政として国政を預かり、1793年隣国スペインに侵入したフランス革命軍を迎撃するためスペインに援軍を送ります。この戦いは当初スペイン・ポルトガル連合軍が優勢でしたが、長期戦で敗北が続くとスペインは政策を転換し、スイスのバーゼルでフランスと和平を結んでこれを終わらせ、今度は逆に敵であったフランスと、密かにポルトガルを占領する密約を交わします。

1801年、革命で今だ混乱していたフランスに彗星のごとく一人の「英雄」が表れます。ナポレオン・ボナパルトです。(1769~1821)

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彼はクーデターを起こして脆弱な革命政府を倒すと、自ら統領政府を興してその第一統領となり、事実上フランスの全権を掌握します。そして宿敵イギリスを包囲する作戦の一環としてスペインと正式に同盟し、スペイン軍にポルトガルを攻撃させてその領土の一部を占領してしまいました。摂政ジョアン王子率いるポルトガル側は講和を申し入れますが、ナポレオンはその条件として賠償金の支払い、ブラジルの一部の割譲、ポルトガル国内へのイギリス船の入港禁止というポルトガルが到底受け入れられない条件を突き付け、当然ポルトガルは拒絶します。

1804年「フランス皇帝」となったナポレオンは1806年に「大陸封鎖令」を出してイギリスを孤立させる作戦を開始、ポルトガルもこれに参加させようとしますが、前回お話した様にポルトガルにとってイギリスは経済的に最大の貿易相手国であり、これに従うわけには行きませんでした。

ポルトガルはスウェーデンと供に「中立」を宣言しますが、怒ったナポレオンは1807年11月、同調しない他の国への見せしめのために、スペイン軍と連合してポルトガルに軍を差し向けました。もはやナポレオン軍が首都リスボンに迫るのは時間の問題です。かねてからこの事を予想し、イギリスと密約を交わしていた摂政ジョアン王子は事ここに至ってブラジルへの亡命を決意、王家と主だった貴族、官僚、富裕な商人たちなどの資産家も合わせ、合計6千の人々と、9千の兵が乗船するポルトガル全艦隊を率いてイギリス艦隊の護衛の下、一路ブラジルへと脱出しました。

この時、すでに周囲の状況の把握すら出来ないほど病んでいた女王マリア1世は、どこに連れて行かれるのかも分からず、王宮から艦隊の待つ港へ急ぐ自分たちの行列を見て、「まるで逃げようとしていると国民に思われてしまう。急がずゆっくり行きなさい。」と言ったといわれています。

これはポルトガル建国以来初めての事で、また同時に世界史を見てもこれほど大規模な「国家の移転」は非常に珍しい事例です。(もちろんあまり誇れる様なものではありませんが。)これ以後ポルトガル本国は、1822年にジョアン王子が国王となってから帰国するまでの15年間に亘り、最初はフランス、次にそれを追い出したイギリスによって支配される事になります。

さてナポレオンの手を逃れて脱出に成功し、1808年無事にブラジルに到着したマリア女王と摂政ジョアン王子率いるポルトガル亡命政権はリオデジャネイロに王宮を構え、ここをポルトガルの首都に定めます。ポルトガル本国ではフランス軍との戦闘が続いていましたが、その戦火もここまでは届かず、ジョアン王子はじめ王家の人々は成り行きを見極めるため、以後15年もの間この地で待ち続ける事を余儀なくされます。そしてその最中、哀れな女王マリア1世はついにポルトガルに帰ることなく、1816年に82歳で亡くなりました。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
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