落日のポルトガル王国 ・ ブラジル帝国成立と王家の帰国

みなさんこんにちは。

1807年のナポレオン軍によるポルトガル侵攻を受け、ポルトガル本国を脱出して植民地ブラジルのリオデジャネイロにたどり着いたジョアン王子率いるポルトガル王国亡命政権は、ナポレオンの動きとヨーロッパ情勢を見極めるため、当地に遷都します。そして彼の母である女王マリア1世が1816年に亡くなると、摂政ジョアン王子がジョアン6世(1867~1826)としてブラジルで即位しました。(彼はポルトガル史上初めて本国以外で即位した国王です。)

DEBRET~1

上がジョアン6世です。(失礼ながら見事な二重あごですね。)彼は本国がナポレオン軍を追い出したイギリス軍の支配下にある事に切歯扼腕していましたが、やがてナポレオンが失脚してセントヘレナ島へ流され、ヨーロッパ情勢が落ち着くと1820年にポルトガルでイギリスの軍政に対して革命が起き、これに勝利した革命政府から正式に「国王」として帰国を請願され、1822年喜び勇んで亡命政権をたたみ、息子のペドロ王子をブラジル摂政に残して王家以下亡命者たちはめでたく帰国の途に着きました。

帰国したジョアン6世を待っていたのは、革命政府によって作られた立憲君主制に基づく憲法の制定とその遵守でした。世界の情勢は王侯貴族の一存で(極端に言えば君主の我がままや個人的な好き勝手で)国の方針の全てが決まる「絶対王政」から、三権分立を基本とした近代立憲君主制に移行しつつありました。それまでの王なら、君主の権力を制限した憲法など当然拒否したでしょうが、ナポレオンによって散々悩まされ、これと戦い続けて亡命までした苦労人の彼は、新しい時代の君主のあり方に理解を示してこれを受け入れます。

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しかしこれに反対したのが上に載せた国王の次男ミゲル王子(1802~1866)です。彼は絶対王政の信奉者だったので議会側と衝突し、1824年に議会側は再び革命を起こして国王一家を拘束してしまいました。ジョアン6世はイギリスに救援を求めて脱出し、イギリスの力を無視出来ない議会側もミゲル王子を罷免する事を条件に講和します。ミゲル王子は父王の許しを得てオーストリアに亡命し、ジョアン6世は何とか復位することが出来ました。

ちょうどその頃、海の向こうのブラジルでも異変が起きていました。国王ジョアン6世は摂政として植民地ブラジルを任せた長男ペドロ王子に対し、「国内の混乱が収まったから早く帰国するように」と何度も命じていたのですが、王子は父の命令を無視して全く帰国しようとせず、それどころかブラジル独立派に擁立されて1822年に「ブラジル帝国」の建国とポルトガルからの独立を宣言、「初代皇帝ペドロ1世」として即位してしまいました。

この王子たちの不祥事にそれまでの長い苦労もたたり、国王ジョアン6世はすっかりまいってしまい、1826年59歳で亡くなりました。しかしそこで新たな問題が起きてしまいます。当然新たな王を決めなければなりませんが、正当な後継者は長男のペドロ王子です。しかし彼は先に述べた様に「ブラジル皇帝」になってしまっているので両国が認めず、やむなく彼はまだ7歳の娘マリア王女(後のマリア2世)をポルトガル国王とします。

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上がブラジル帝国初代皇帝ペドロ1世(1798~1834)です。実はこの人物、肖像画では一見優しそうに見えますが、実際はとても短気ですぐにヒステリーを起こし、妻である皇后マリア・レオポルディーネに暴力を振るうなど粗暴な性格だった様です。まだ20代で若かった事もあるでしょうが、女たらしで愛人を何人も作り、さらに1825年には領土をめぐって隣国アルゼンチンに攻め入り(500日戦争)逆に撃退されて敗北するなど、およそ「名君」には程遠い人でした。

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そしてこの女性が皇后マリア・レオポルディーネ(1797~1826)です。彼女はオーストリア皇帝フランツ1世の娘で、頼りない夫ととは比較にならない巧みな政治手腕を発揮し、実際にブラジル独立に大きく貢献したのは夫のペドロ1世ではなく彼女でした。また貧しい国民のために「畜産業」を新たな産業として育てるなどしてブラジルのために尽くし、それゆえ生前からブラジル国民に絶大な人気があり、現在でも「ブラジルの国母」として崇められているそうです。

しかし皇后の私生活は、ペドロ1世との間に7人の子供を授かったものの、夫ペドロ皇帝の暴力と愛人問題に悩まされる不幸なものでした。そして1826年、皇后レオポルディーネは8人目の子の流産のショックと産褥熱によって29歳の若さで亡くなります。

皇后の死にブラジル国民は深く悲しみ、彼女に辛く当たった夫ペドロ1世に批判が集まり、さらに1828年には彼が1825年から始めたアルゼンチンとの戦争が敗北に終わった事なども重なり、ペドロ1世の人気は坂道を転がるように落ちていきました。そして1831年ついに暴動が発生、そこでペドロ1世は、自らを護衛する近衛兵たちまで彼を見捨てて宮殿を逃げ出す様に愕然とし、もはやこれまでと、まだ5歳の皇太子(後のペドロ2世)に譲位してイギリス軍艦に乗船し、ポルトガル本国に脱出します。

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上が譲位されたペドロ皇太子です。(もちろん政治は出来ませんから彼が成人するまで宮廷の忠実な家臣たちが一年交代で摂政を務めたそうです。)こうしてブラジルの混乱は一応収束しましたが、ポルトガル本国では帰国したペドロ1世と、亡命先のミゲル王子が王位をめぐって対立し、再び戦いの火蓋が切られることになります。

次回に続きます。
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