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ポルトガル王国の終焉 ・ 運命の王政廃止

みなさんこんにちは。

1831年のブラジル暴動で幼い皇太子に帝位を譲位したペドロ1世は、ポルトガル女王にさせた娘のマリア2世の摂政となるべく、翌年ポルトガル本国に帰国しますが、本土にはすでにオーストリアに亡命していた弟のミゲル王子が、1828年から「正当な王位は自分にある」と主張して地主、教会などの旧勢力を味方に付け、立憲政府を倒して立憲王政派を弾圧していました。なぜなら前回お話した通り、彼は熱烈な「絶対王政派」であったからです。

これに対して兄のペドロ1世は、意外にもリベラルな「立憲王政派」でした。(これも前回お話した様に、彼は家庭人としては完全な落第生でしたが、政治スタイルなどの局所的な部分だけは、新しい時代の君主のあり方を理解していました。)

やむなくペドロ1世はイギリスの力を借り、本土の手前のアゾレス諸島に逃げていた国内の立憲派を指揮してこれと戦います。戦いは一進一退でしたが、1833年7月にはイギリスの支援を受けていたペドロ1世率いる立憲王政派が首都リスボンを奪還し、ミゲル王子とその軍勢およそ2万は地方に逃げ延びます。そして1834年5月に両者の間で講和が結ばれ、ミゲル王子はポルトガル王位を全面的に放棄し、国外に永久追放となる代わりに終身年金を受給するという形で終結しました。

こうして1834年9月、ポルトガル議会は15歳のマリア2世を正式な王として推戴し、ようやく彼女は戴冠する事が出来ました。そしてそのわずか3ヵ月後に不肖の父ペドロ1世は35歳の若さで急死します。

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上がポルトガル王国2人目の女王マリア2世(1819~1853)と彼女のネセシダーデス宮殿です。(とても女性らしい趣味の宮殿ですね。そしてこの宮殿が1910年の王政廃止までブラガンサ王家の宮殿となります。)

ようやく落ち着いたポルトガル情勢ですが、マリア2世の治世は父と叔父の王位争いで活躍した将軍たちによる軍人政権が続きます。そしてマリア2世が亡くなる2年前にジョアン・サルダーニャ将軍(1790~1876)がクーデターで実権を掌握するなど、軍人たちの強権政治に悩まされます。やがてマリア2世が1853年に亡くなると、その息子のペドロ5世、さらにその弟ルイス1世へと王位が引き継がれていきますが、政治の実権はサルダーニャ将軍が握り続けていました。

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上がジョアン・サルダーニャ将軍。彼は首相を3度も務め、80歳を過ぎてもクーデターを起こす様な「暴走老人」でした。(軍人の思考というのはいつの時代も万国共通の様ですね。)そして下がマリア2世の息子でブラガンサ朝第11代国王(ポルトガル王としては31代)ルイス1世(1838~1889)です。

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彼の治世、最初はサルダーニャ公らの軍人政権に国を牛耳られ、公の死後は王制を廃止して完全共和制を求める「共和派」が台頭し始め、王政派との間で議会が対立、当然国家の政策や方針もなかなか定まらず、ブラジルを失ったとはいえまだ世界各地に広大な植民地を保持していたものの、他のヨーロッパ諸国に比べて科学、教育、経済などあらゆる面で遅れた後進国に転落していました。(上の彼の表情をご覧ください。内憂外患でかなりお疲れの様です。)

そんな状況の中で国王ルイス1世の解決出来た事は少なく、彼は次第に政務より文化面に執着する様になります。そして国の将来を憂いつつ1889年に51歳で亡くなります。(彼は文学や詩、海洋学などに興味を示し、世界最初の「水族館」を造るなど、この分野では功績を残しました。)

ちょうどその頃、海を隔てたかつてのポルトガル最大の植民地ブラジルで、またも異変が起きていました。ルイス1世の叔父であり、ブラジル帝国2代皇帝のペドロ2世が外遊中にブラジル軍部がクーデターを起こし、彼を廃位してしまったのです。

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上がブラジル皇帝ペドロ2世です。(1825~1891)彼は父ペドロ1世からわずか5歳で帝位を譲られて後、58年間も皇帝としてブラジルを統治し、奴隷制度の廃止、鉄道の建設、隣国パラグアイとの戦争の勝利など、様々な面で父とは比較にならない有能で英邁な君主でしたが、その政策が大農場主や有力者などのこれを嫌う保守旧勢力の度重なる抵抗に遭い、1889年彼が留守中についに帝政打倒のクーデターが発生、帝政を廃止して共和制に移行しました。

行き場を失ったペドロ2世は当初は父祖の地であるポルトガルに帰ろうとしますが、王国政府は彼に冷たく、結局彼はフランスに亡命し、1891年66歳で失意の内にパリで亡くなりました。(ポルトガル政府が彼に冷淡だったのは、彼の父ペドロ1世が勝手に最大の植民地ブラジルを独立させてしまった事で、ポルトガルにとって最大の収入源を失ってしまった事と、その後の王位をめぐる本国での内戦など、全て父ペドロ1世に起因する事柄のせいと思われます。しかし今日のブラジル本国では彼は名君として尊敬されているそうです。)

さてポルトガル本国ではルイス1世の後を継いだカルルシュ1世(1863~1908)が王位にありましたが、彼の浪費による財政の悪化でポルトガルは2度も財政破綻し、国内は大混乱、暮らしに困った国民の不満が共和主義者のさらなる台頭を生み、彼はこれを弾圧、そして1908年共和主義者の報復により彼は歴代国王で唯一暗殺されてしまいました。

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上が歴代国王で唯一暗殺されたカルルシュ1世。彼の死は、ポルトガル王家の終焉を決定付けました。

カルルシュ1世の暗殺を受け、19歳の若い王マヌエル2世(1889~1932)が即位します。彼は自由選挙を行い、これまでの偏った政治の決め方を是正する方針で国民の不満をそらそうとしますが、結果は共和主義者と社会主義者の大勝に終わり、1910年10月に王政打倒の革命が起こり、ついに彼は退位し、ジブラルタルからイギリスに亡命しました。

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上がポルトガル王国最後の王マヌエル2世と、イギリスで一市民となった晩年の彼の姿です。こうして13代270年余り続いたブラガンサ王朝は滅び、同時に12世紀から760年近く続いたポルトガル王国は消滅して新生「ポルトガル共和国」が誕生したのです。

次回に続きます。
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