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フィレンツェの興隆 ・ 煌きの始まり

みなさんこんにちは。

今回から、ヨーロッパ中世において「ルネサンス」を花開かせ、人類の至宝ともいうべき多くの芸術作品を生み出した「花の都」フィレンツェと、この街で巨万の富を築き、そのあり余る富を惜しげ無く投じて多くの芸術家や文化人を保護育成し、フィレンツェの街そのものを巨大な「芸術作品」に造り上げ、やがて一市民から「トスカーナ大公」という君主にまで上り詰めた謎の大富豪一族「メディチ家」についてお話したいと思います。

最初はその舞台となるイタリア半島中部の都市フィレンツェの歴史と成り立ちからご紹介いたしましょう。

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フィレンツェの歴史と成り立ちについて詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。イタリア美術史がご専門の若桑みどりさんの執筆で、少し専門的ですがページ数は480ページとボリュームがあり、フィレンツェの歴史とその興亡を美術とからめて詳細に記した優れた本です。写真も270枚も掲載されており、モノクロで小さいのが残念ですが、それらは読み進める上では全く違和感はなく、とても満足出来る作品と思います。

この街が造られたのは古代ローマ以前にこの地に栄えた古代エトルリア時代の様ですが、最初に歴史に登場するのは古代ローマ時代の紀元前50年ごろで、ローマ時代の植民都市として拡大建設されたのが始まりです。そしてローマ神話に登場する花の女神フローラにちなみ「フロレンティア」と名付けられたのがフィレンツェの街の名の由来です。

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RepublicofFlorence1494.png

上がフィレンツェの位置と街の名の由来である花の女神フローラ。しかしこの街はあくまでもローマ帝国が各地に建設した数多くの一般的なローマ都市の典型であり、ローマ時代には一地方都市にすぎず、またローマ帝国滅亡後の長い混迷の時代にはすっかり衰退し、忘れ去られた存在となっていました。

状況が変わるのは9世紀に入ってからで、この地を支配したカロリング朝フランク王国のカール大帝が、従えた豪族をトスカーナ辺境伯に任じてこの地を統治させた頃から街に人々が集まり出し、10世紀にその後を継いだオットー大帝の神聖ローマ帝国時代になると、商業活動が活発な「重要都市」にまで復活していました。

この時代はフィレンツェを含むイタリア中部から北部の都市でも同様に商工業が盛んになり、やがて商工業の発達によって富を得た人々が団結して1115年に「自治都市」を宣言、最初は認めなかった神聖ローマ皇帝も1187年には正式にこれを認めます。(この背景にはやはり「お金」の問題が絡んでいます。神聖ローマ皇帝は国内外で常に戦いに明け暮れ、多くの軍資金を必要としていました。そのため力で支配し続けるよりも、これらの都市に自治権を与えて好きなだけ商売をさせ、その代わりに戦時には儲けた金を軍資金として提供させる様にした方が得策と判断したのでしょう。)

その頃フィレンツェでは、古くからの支配者である貴族階級が、ローマ教皇を主君と崇める教皇派(グエルフ)と、ドイツ神聖ローマ皇帝に忠誠を誓う皇帝派(ギベリン)に分かれ、街の主導権を巡って争っていました。両者の争いは熾烈を極め、商人などの平民たちは第三勢力として「組合」(アルテ)を造り、自衛しながら時には教皇側に、これが不利になると皇帝側にと状況次第で味方に付く相手を変え、最終的には教皇側に付いてしたたかに生き延びていきました。

この争いはおよそ200年以上続き、最終的には教皇派が表面上勝利しますが、長い抗争で貴族階級はすっかり疲弊し、代わって商人たち平民階級が台頭します。彼らは抗争の期間中も争いを上手く利用しつつ富を蓄え、13世紀の終わりには街の実権を握って「フィレンツェ共和国」を樹立させました。

この頃になるとフィレンツェの人口は10万を超え、商人たちの豊かな財力を武器に周辺地域へ勢力を伸ばします。彼らは純度の高い良質なフィオリーノ金貨(フローリン金貨)を鋳造して各国に流通させ、その信用度の高さから「中世のドル」といわれるほど数百年に亘って各国で使われました。

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上がフィオリーノ金貨(フローリン金貨)です。大きさは直径約2センチ、重さは3.5グラムほどで意外と小さい様に思われますが、ある資料によればこれ1枚で現在の日本円で約12万円の価値があるそうです。また表面にはフィレンツェの街の紋章であるユリの花が刻印され、裏面には街の守護聖人ヨハネの姿が刻まれています。 (この人は何でもイエス・キリストのいわば「先輩」にあたる人物で、「ヨハネの黙示録」で有名なキリストの弟子のヨハネとは別人だそうです。)

この時代のフィレンツェで最も力を持った商人は毛織物業者と金融業者でした。前者は羊の毛、つまり羊毛で柔らかいふわふわの衣類を生産して多くの人々に珍重されて莫大な利益を得、フィレンツェを含む北イタリアと、後のオランダ・ベルギーの元となるフランドル地方がヨーロッパにおける二大生産地でした。後者は言わずと知れた「金貸し」で、今回のテーマの主役であるメディチ家はこれを生業として財を成した一族です。

14世紀から15世紀にかけて、それまでに周辺の地域を手に入れて都市国家から領域国家となっていたフィレンツェは、同じく勢力を広げていた北の強国ミラノ公国と戦争を繰り返す様になります。その理由は両国とも内陸にあったため、海への出口を求めて斜塔で有名な海洋都市ピサを奪い合ったのが原因です。(港を手に入れれば海上貿易でさらに儲けられますからね。)

DuchyofMilan1400.png

上がそのミラノ公国の最大勢力範囲です。ミラノはフィレンツェと同様自治都市でしたが、貴族のヴィスコンティ家を君主とする「公国」として早くから君主国となり、さらにその後のスフォルツア家の時代も含め、事実上フィレンツェのライバル国家でした。(上の図ではミラノがフィレンツェの領土を深く侵食していますが、後にフィレンツェがこれらを奪い返し、最終的にピサなどの港はフィレンツェのものとなります。)

フィレンツェの敵は北のミラノ公国だけではありませんでした。南には皇帝派のシエナ共和国があり、都合により表面上は教皇派であったフィレンツェとは戦争が絶えませんでした。(この争いは1556年にシエナが敗れてフィレンツェに併合され、滅亡するまで続きます。)

Italy_1494_v2.png

上がフィレンツェを含む中世イタリアの諸勢力の図です。年号は少し後のルネサンス期になりますが、大体この様なパワーバランスになっています。そしてメディチ家とその一族はこの複雑な時代に歴史の表舞台に登場する事になるのです。

次回に続きます。
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