メディチ家の出現 ・ その起源と台頭

みなさんこんにちは。

前回はルネサンスを育んだ「舞台」であるフィレンツェについて、その起源と街の歴史を簡単にお話いたしました。その「舞台」でルネサンスを創り上げた「主役」は数多くの芸術家たちですが、今日はそれらを影で「演出」したスポンサーであるメディチ家についてお話したいと思います。

メディチ家 (講談社現代新書)

新品価格
¥950から
(2014/4/8 11:57時点)



このメディチ家について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は358ページ、メディチ家研究の権威である森田義之さんの著作で、個人的には表紙のカバーデザインが単純すぎるのが残念ですが、メディチ家の全てについて網羅した日本で唯一の本で、メディチ家の興亡を知るには申し分の無い秀作です。

メディチ家 ルネサンス・美の遺産を旅する (別冊家庭画報)

新品価格
¥2,160から
(2014/4/8 12:06時点)



このメディチ家に関する本でもう一つ個人的にお薦めしたいのが上の本です。雑誌の別冊で140ページ程度のものですが、何より雑誌特有の綺麗なビジュアルデザインと大きなカラー写真が魅力で、また文庫には無い多くのエピソードや、メディチ一族の家系図がその人物の肖像入りで掲載されているなど、非常に興味深い本です。上の森田氏の文庫と照らし合わせて読み進めると良いと思います。

このメディチ家というのは、改めて簡単にご説明すると、フィレンツェ出身の大銀行家・政治家であり、当時の中世ヨーロッパ屈指の大富豪で、その莫大な富で多くの芸術家たちの創作活動を支援し、さらにローマ教皇を3人も輩出、後に神聖ローマ皇帝から、フィレンツェとその周辺を領国とする「トスカーナ大公」の位を与えられた一族の事です。

しかしこのメディチ家ですが、最初から大富豪でも名門の出であったわけでもありません。後にメディチ家がトスカーナ大公国の君主となってから作られた一族の由来を表す17世紀はじめの「伝記」では、メディチ家の祖先はかつてこの地を支配したカロリング朝フランク王国のカール大帝に仕えた勇敢な「騎士」であり、カール大帝によるランゴバルド王国征服の際に武勲を立て、その戦功から大帝より「貴族」に列せられた云々とされていますが、、実際に彼らの祖先が「貴族」であったという確かな記録も証拠も無く、歴史家の間でもこれはメディチ家が自らの起源に「箔を付ける」ために作らせた創作であるとされています。


実際には彼らの起源は前述した様に確かな記録がほとんど残っておらず、謎に包まれており、ヨーロッパの他の名門と同じく発する所はかなり「怪しげ」で、一説には彼らの祖先はフィレンツェ近郊の森の中で「炭焼き」をしていた一人であったとさえ云われています。  

また彼らの家名である「メディチ」ですが、これは現地のイタリア語で「医者」や「薬」を表す単語で、この事からメディチ家の祖先は「炭焼き」から何代目かにその類いの商いに転進して成功した者が、多少資金が出来た事で、後にメディチ家の家業となる「高利貸し」や「両替商」に転じたのではないかというのが通説となっている様です。これはメディチ家の紋章にもそれをうかがい知ることが出来、紋章に表される複数の丸い玉が、「丸薬」または両替の際に使われる、秤に乗せる丸い分銅を表しているのだというのがその根拠になっています。   

218px-Coat_of_Arms_of_Medici_svg.png

上がメディチ家の紋章です。しかし上で述べた事は全て後付けの推測であり、確かな証拠はありません。     

メディチ家が記録に初めて登場するのは12世紀後半で、フィレンツェが自治都市として自立した頃には、すでに市内で店を構えて両替商を営んでいた様です。13世紀になると共和国の議員などを務め、同時に多くの土地を所有するまでになりますが、当時のフィレンツェには彼らをはるかに凌ぐ財を持つ古くからの有力豪商が競い合い、まだこの段階でのメディチ家は、たくさんいる二流の資産家の一つに過ぎないものでした。  

14世紀に入ると、ヨーロッパは深刻な不況、戦争、飢饉、疫病に次々に見舞われ、特にはるか東方からもたらされた黒死病(ペスト)の猛威がヨーロッパ全土を覆います。(このペストとその恐ろしさについては今だにヨーロッパで語り草になっていますね。なんとこのペストの大流行により、当時のヨーロッパの人口の3割に当たる2500万人以上が死亡したそうです。)フィレンツェもその被害は甚大で、1348年には市民の4割にあたる4万人が死亡し、メディチ家も一族に大勢の死者を出して多くの人材を失った結果、一時的に衰退します。
  

しかしこの事が、メディチ家をフィレンツェ屈指の有力者に押し上げる事になります。ペストや内乱などで、それまでフィレンツェを支配していた古くからの有力家門が次々に没落して行き、代わってそれらをうまく切り抜け、地道に銀行業に勤しんで財を蓄え、さらにローマ教皇庁と深い関係を持った新興財閥のメディチ家が一躍その座に躍り出たのです。

Giovanni_di_Bicci_de_Medici.jpg

その時点におけるメディチ家の当主は上のジョバンニ・ディ・ビッチ(1360~1429)という人物でした。彼は一族が代々築いてきた銀行業をさらに拡大発展させ、特に彼の代にローマ教皇位を巡る争いで彼が即位させた教皇ヨハネス23世から、褒美としてローマ教皇庁の金融部門の責任者を任され、教会収益からそれまでと比較にならない莫大な利益を上げました。そのため事実上この人物が「メディチ王朝」の始祖とされています。

Johannes_XXIII_Gegenpapst.jpg

上がジョバンニ・ディ・ビッチが擁立した教皇ヨハネス23世(1370?~1418)本名はバルダッサレ・コッサという海賊とも傭兵であったともいわれる素性の知れない人物です。しかしジョバンニからすれば、彼の「操り人形」として利用出来れば誰でも良かったのでしょう。

やがて彼が失脚し、新たに即位した教皇マルティヌス5世(1368~1431)もジョバンニをそのまま教皇庁の財務管理者に留任させます。彼はそれだけでなくジョバンニに伯爵位まで授けようとしていますが、ジョバンニは当時まだ「共和制」であったフィレンツェにおいて、「貴族」になるのは政治的にまずいと判断し、これを辞退しています。

さて、メディチ家を成功と栄達の道へと導いた家業である「銀行業」と「両替商」について少し触れておきましょう。両替商とは読んで字の如し、自国の貨幣と外国の貨幣を手数料を取って「両替」する商売で、もちろん金貸しも行います。国際商業都市であったフィレンツェには各国から多くの商人たちが集まり、当然その決済に相手の国の貨幣が必要です。そのため両替の需要はいくらでもあり、また「物」を売る商売ではないので在庫や売れ残りを抱える心配が無いのも強みでした。(彼らが商売で使った台が「バンコ」と呼ばれ、それが英語で銀行を表す「バンク」の語源になったのは良く知られていますね。)

574px-Marinus_Claesz__van_Reymerswaele_001.jpg

上は両替商の夫婦を描いたルネサンス期の絵です。これを見ると分かる様に、当時の両替商というのは街角の個人営業がほとんどでした。しかしこの時代はこの程度で充分事足りた様で、これら個人営業の中でさらに成功した者が、さらに上のレベルの銀行業を興し、王侯貴族や一国の政府などの「大物」に大金を貸し付ける様になります。メディチ家はそうしてのし上がった一族でした。(ジョバンニが当主としてメディチ銀行を継いだ時も、各地の支店を合わせて従業員は20名ほどだったそうです。中世の銀行などその程度でした。)

その後のメディチ家は、ジョバンニの息子コジモの代になるとさらに大きな波乱が待ち受け、彼らの運命もそれにつれて大きく変動していく事になります。

次回に続きます。
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR