メディチ家の躍進 ・ フィレンツェ支配の確立

みなさんこんにちは。

ジョバンニ・ディ・ビッチによって巨万の富を得たメディチ家ですが、このジョバンニの代になって、後の芸術へのパトロンとして動き出す様になります。(それ以前のメディチ家は、芸術や文化などに全く無関心で、それどころか一族の中には素行の悪い者が数多く、市民の間でも「乱暴で危険な一族」として悪評が絶え無かった様です。)ジョバンニは資産が増えるにつれ、教会や修道院に多くの資金を投じる様になり、これらの建築を名だたる芸術家に任せるなどしてその悪評の払拭に努めます。そしてその彼が1429年に亡くなると、息子のコジモ・デ・メディチ(1389~1464)が新たにメディチ家の当主となります。(記録によれば、ジョバンニが息子コジモに残した遺産額は約18万フィオリーノ、およそ216億円であったそうです。)

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彼は父以上の商才と政治的手腕に長けた優れた当主でした。また父ジョバンニが実務本位の商人教育しか受けていなかったのに比して、文化や学術などにも厚い英才教育を受けて育ち、父の後を継いでメディチ家の当主になった時には、すでに押しも押されぬフィレンツェの実力者になっていました。

ちょうどその頃、フィレンツェは数百年続く古くからの有力家門であるアルビッツィ家を筆頭とする二十数家の名門派閥と、メディチ家を代表とする新興派閥が勢力を競っていました。この新旧両勢力は政策面で事あるごとに対立し、やがてそれが表面化します。

最初に仕掛けたのは旧勢力アルビッツィ派でした。折からフィレンツェは周辺国と戦争が続いており、主戦派の彼らは1433年9月、戦争中止派のメディチ家当主コジモを「国家反逆罪」で逮捕し、20日間に亘って拘禁します。コジモは危うく「死刑」にされる所でしたが、戦争に反対する市民らの世論のおかげで国外追放とされます。

せっかくこれまで築いてきたものを全て失ったかに見えたコジモ率いるメディチ家ですが、実は彼は事前にアルビッツィ派の動きを察知しており、資産の大半を国外の支店に移していました。また父ジョバンニの代から親子二代で築き上げてきたメディチ銀行の信用と人脈のネットワークがこの時大いに役立ちます。彼は行く先々で大歓迎され、亡命先のヴェネツィアで何不自由なく過ごしながら復権の機会を窺います。

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上はコジモが亡命していた当時のヴェネツィアの様子です。この頃のヴェネツィアは最強の海洋都市国家として地中海交易を独占し、全盛期を迎えていました。

さてメディチ家を一掃して一時の勝利を得たアルビッツィ家でしたが、度重なる戦争に戦費調達のための重税が市民に重くのしかかり、それらを強行するアルビッツィ家をはじめ旧勢力に対し、市民の怒りは頂点に達していました。そしてコジモが追放されてからほぼ1年後、ついに議会はメディチ派に占められ、市民集会でコジモの追放が取り消しとなります。(こうしたフィレンツェ本国の情報は、ヴェネツィア滞在のコジモに逐一報告されていました。恐らくこれらは全てコジモが影で操っていたのでしょう。)

こうして彼は見事にフィレンツェに帰還し、フィレンツェ市民から歓呼の声で迎えられます。同時にそれまでフィレンツェを支配していたアルビッツィ家などの旧勢力は全て国外追放とされ、反対勢力のいなくなったフィレンツェにはコジモ率いるメディチ家による一極支配が確立しました

しかし、いくらメディチ家が新たな支配者となっても、何もかも自由に出来たわけではありませんでした。伝統的に共和制の精神が強いフィレンツェでは、指導者に対して常に反対勢力が目を光らせ、隙あらばこれを追い落とさんと手ぐすねを引いていたからです。専横に振舞えばアルビッツィ家ら旧勢力の二の舞になってしまう。コジモはこれを一番理解していました。

そこで彼は自らは表に立たず、表向きは共和制を尊重しつつ、実際は議会と政府の要職を全てメディチ派で固め、影でフィレンツェを支配する独裁体制を築きました。また彼は交戦中の各国と交渉して(裏で相手にかなりの金をばらまいた事でしょう。)うまく戦争を終わらせると、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ナポリ王国、ローマ教皇領のイタリア5大国による勢力均衡を図る事を今後の対外政策の基本とします。そしてこれら5カ国の間で「ローディの和」と呼ばれる和平条約を結んで長い戦乱に終止符を打ちました。

当時は国民に兵役を義務付けたいわゆる「国軍」というものは存在しませんでした。特にフィレンツェやヴェネツィアなどの商業国家は商人の国なので戦いの事は何も知らず、戦争になると多額の金を払って下の画像の様な多くの「傭兵」を雇い、彼らに戦争を任せていました。そのため戦争になるとこれらの国の市民は傭兵たちに支払う報酬の費用を捻出するため、重税だけでなく強制的に公債を買わされ、その負担が国の慢性的な財政問題として重くのしかかっていました。

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彼は周辺国を力で支配する事で他国の財貨を奪い取るよりも、諸外国との戦争を極力避け、自国の市民に安心して本来の商業活動に従事させ、大いに他国と商売していわば「持ちつ持たれつ」の関係にした方がはるかに国を富ませ、また戦争も起こりにくくなる事を熟知していたのです。

さらに彼は父ジョバンニの代からの強力なローマ教皇庁との結びつきをさらに一層強め、長く対立していたカトリックとビザンツの正教との合同を図ります。(これは結局両者にその気が無かった事と、1453年のビザンツ帝国の滅亡により実現しませんでしたが、その後にメディチ家からローマ教皇を輩出する足がかりとなります。)

こうした政治的動きと合わせ、コジモは本来の仕事である銀行業にも精を出し、それまでイタリア周辺のみであったメディチ銀行の支店網を、イギリス、フランス、スイス、オランダなどヨーロッパ各国へと広げ、メディチ銀行は彼の時代に全盛期を迎えます。またメディチ家は銀行業以外にも工業原料(羊毛、絹、毛皮、染料)鉱物資源(明礬、「みょうばん」錫、鉛、金)高級衣服(毛織物、絹織物)工芸品(タペストリー、ベッド、銀製品、宝飾品、写本、)香辛料(塩、胡椒)農産物(オリーブ、アーモンド、柑橘類)などあらゆる商品の輸出にも係わり、これらによる莫大な収益で、イタリアだけでなくヨーロッパ屈指の大富豪となりました。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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