メディチ家と天才たち ・ 花開くルネサンス 1

みなさんこんにちは。

コジモ・デ・メディチの活躍によりフィレンツェの「支配者」となり、一連の商業活動を通じてフィレンツェの一銀行家からヨーロッパ有数の大富豪へと変貌を遂げたメディチ家ですが、前回も述べた様に彼らは政治、経済だけではなく芸術と文化の方面にも、そのあふれんばかりの富を費やしています。ここでメディチ家の人々がどの様にして芸術や文化を保護し、その担い手であった芸術家たちと係わったのかを、その後のメディチ家とフィレンツェの歴史や出来事と合わせてお話しましょう。

Cosimo_di_Medici_(Bronzino).jpg

まずメディチ家のフィレンツェ支配を確立し、「祖国の父」コジモ・イル・ヴェッキオ(イル・ヴェッキオは「老人」の意味だそうです。これ褒め言葉なんでしょうか?)と呼ばれたコジモ・デ・メディチから始めますが、彼が生きた時代はすでに始まっていた「ルネサンス」の前期に当たります。(この「ルネサンス」というのは、フランス語で「復活」または「再生」を表すもので、古代ローマ帝国滅亡からおよそ千年続いた「暗黒の中世」が終わり、キリスト教カトリックが禁じていた諸々の束縛から人々を解き放ち、古代ギリシャ、ローマの自由で豊かな表現を追い求めた一連の文化復興運動の事です。)

彼が保護支援した芸術家で最も有名なのは、ブルネレスキ、ドナテッロ、フィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコなどがいます。ブルネレスキは建築家、ドナテッロは彫刻家で後の二人は画家として有名です。

Brunelleschi.jpg

建築家フィリッポ・ブルネレスキ(1377~1446)彼は彫刻家でもありましたがローマを旅した時にローマ建築に魅了され、建築に没頭する様になったそうです。その彼が手がけた最も大きな仕事はフィレンツェの街のシンボルでひときわ目立つ巨大なドームが印象的な「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」のドームでしょう。

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Filippo_Brunelleschi,_cutaway_of_the_Dome_of_Florence_Cathedral_(Santa_Maria_del_Fiore)

上の画像をご覧になれば分かる様にこの部分を彼が担当しています。(この大聖堂の全てを彼が造ったのではありません。大聖堂自体は1296年から造られ始め、完成までに140年以上かかっています。)彼が造ったこのドームの素晴らしさは後のミケランジェロに大きく影響を与え、彼はローマのサン・ピエトロ大聖堂のドームを造る時にこれを真似ています。

StPetersDomePD.jpg

この大聖堂については2008年に日本の某短大の女子大生ら数人が、大理石の壁に落書きをするという呆れ果てた行為を行い、それが他の日本人観光客の訴えによって発覚し、日本のマスコミで大きく報道され批判されたという、同じ日本人として恥ずかしい出来事がありましたが、大学側が直ちにイタリア側に謝罪と賠償と申し出、学生らと教員を厳重注意処分した事が、逆にイタリア本国で大きく報道され、観光客の落書きだらけの自国の街並みや文化財の惨状を恥じ、日本人観光客の潔癖さと、大学側が迅速に学生らを処分した事がイタリアのマスコミで称賛されました。(修復費用についてはイタリア側から大学側に不要であるとの旨が伝達されたそうです)

次にドナテッロ(1386?~1466)ですが、こちらは数多くの彫刻を手がけたほぼ純粋な彫刻家として分類される人物で、その代表作はダヴィデ像です。

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これも後のミケランジェロに大きな影響を与え、彼も同じ「ダヴィデ像」を造っていますね。(しかしこの作品は見ての通り若者の全裸をそのまま表現しており、見方によっては作者ドナテッロの「同性愛」的趣味も見え隠れする事から当時は賛否両論大騒ぎになったそうです。)

コジモはこれらの芸術家たちのパトロンとなる他、古代ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427~~紀元前347)の思想に執心し、「プラトン・アカデミー」を主催して多くの知識人と高度な議論を交わしました。また彼は本の収集にも熱心で古代からの貴重な写本を金に糸目をつけずに買いあさり、図書館を造って寄贈しています。さらに熱心なカトリックであった彼は、多くの教会や修道院、大聖堂などの建築にも貢献しています。

コジモは1464年に75歳で亡くなりますが、息子で後継者のピエロは病弱でした。そのため彼は自分亡き後のピエロと一族の将来を心配し、あらゆる手段を使ってメディチ家の支配を確立し、出来るだけ長くそれが続くよう様々な手を打ちました。

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ピエロ・デ・メディチ(1419~1469)はコジモの長男で重症の痛風持ちでした。そのためピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病みのピエロ)といういささか酷な通称で呼ばれています。(痛風とは、血液の欠陥から足、腰、膝の関節など、体の可動する部位に激痛を伴う病気で、「風が吹いたり止んだりする様に痛みに波がある」事からこの名が付けられ、また患者の9割以上が男性だそうです。)

コジモの死後、彼がメディチ家の新たな当主となると、まだ制度化されていなかったメディチ家の権力世襲に対し、それまでコジモによって抑えられていた反対勢力がメディチ家打倒に動き出します。彼らは隣国フェラーラ公国のエステ家と結び、エステ侯は4千の兵をフィレンツェ攻撃に差し向けます。これに対してピエロはミラノ公国と同盟し、急遽集めた傭兵とミラノの援軍1千とともにこれを迎え撃ちます。兵力は倍の開きがあり不利でしたが、しかし幸いにも敵の一部の寝返りにより形成が逆転、フェラーラ軍は退却し、ピエロは反対者を国外追放にして反乱勢力を一掃する事に成功しました。

彼は父コジモに倣い、芸術と文化のパトロンとして大いに彼らを育成していますが、どちらかといえば質実剛健な趣向であった父と違って絢爛豪華で華美な装飾を好み、これは彼の息子ロレンツォにも受け継がれ、後のメディチ宮廷の基礎がこの時に出来ました。またピエロはコレクションの類いも父と異なり、絵画や彫刻よりも、金銀宝石や宝飾品などに価値を見出す人であった様です。(もちろん絵画や彫刻、建築なども大事にしています。)

しかしこの頃からメディチ家の力の源であり、豊富な資金力を誇った銀行業に陰りが見え始めます。メディチ銀行は先代コジモの卓越した経営手腕によって彼の代に全盛期を迎えていたのですが、その彼が亡くなると、病弱で銀行経営の経験に乏しいピエロは失敗と損失を繰り返し、大きくなりすぎたメディチ銀行は次第に経営に行き詰まる様になりました。

ピエロは当主となってからわずか5年後の1469年に53歳で亡くなります。そのため影の薄い人物ですが、歩けないほどのひどい痛風に悩まされながら病弱な身で、巨大企業となったメディチ家の当主として、またフィレンツェの指導者として激務をこなすのは並大抵の苦労ではなかった事でしょう。それでも出来るだけの事をしてメディチ家とフィレンツェの繁栄を守り、次の後継者である息子ロレンツォに繋いだのは賞賛に値すると思います。

こうしてメディチ家とフィレンツェは彼の息子ロレンツォ・デ・メディチに継承されていきます。そしてそのロレンツォの元でルネサンスは最盛期を迎え、数多くの芸術家や天才たちによって次々と人類の宝が生み出されていく事になります。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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