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メディチ家と天才たち ・ 花開くルネサンス 2

みなさんこんにちは。

持病の痛風と闘いながら、なんとかフィレンツェ共和国を運営していたメディチ家当主ピエロが1469年53歳で亡くなると、彼の息子で20歳のロレンツォ・デ・メディチ(1449~1491)が新たな当主となりました。

Lorenzo_de_Medici-ritratto.jpg

彼は祖父コジモや父ピエロ同様最高の英才教育を受け、まだ20歳の若者でありながら、すでに「王者」の威厳と品格を兼ね備えた人物でした。その事は周囲の人々を通じて広く知れ渡っており、またフィレンツェ共和国は祖父コジモ、父ピエロと2代40年に亘ってメディチ家の支配の下にあって、もはやメディチ家無しでは国が立ち行かなくなっていたので、共和国の代表たちはこの若き当主に、国家の頂点に立って国政を司るよう激励します。

ロレンツォは自分の年齢と未熟さを理由に最初は渋りますが、結局折れてその役目を引き受けます。しかし彼は一旦指導者となると、たちまちそのしたたかで有能な政治家ぶりを見せて周囲を驚嘆させます。彼はまず政権の安定を図るため、それまで権限が分散していた政治、軍事、財政などの重要権限を全て議会で意思決定出来る態勢とし、その議会の大半を親メディチ派の議員で固め、さらに選挙管理委員会の委員もメディチ派のみに限定する事により、反メディチ派を徹底排除しました。これによりいかなる場合でも、メディチ派の人間に有利に政策が決定され、以後政府と議会の運営はロレンツォとメディチ派の意のままに動かされていきます。

さらにロレンツォは政治力だけでなく断固たる軍事力も行使します。1471年フィレンツェの隣の一都市ヴォルテッラで明礬の採掘権を巡って市民とフィレンツェ人が衝突、やがて暴動に発展し、怒ったロレンツォは3千の傭兵を差し向けてヴォルテッラを包囲します。一ヶ月の籠城の末ヴォルテッラが降伏すると、フィレンツェ傭兵軍は徹底した略奪と殺戮を行い明礬鉱の採掘権とともにヴォルテッラを併合しますが、その命令を下したのはロレンツォ自身だったそうです。(これはまだ若い彼が自分を侮らせまいとするために、内外に見せしめとして行ったのかもしれません。)

さてこのロレンツォですが政治家としての側面もさる事ながら、自身は大変な快楽主義者、つまり悪い言い方をすれば「遊び人」でした。ありとあらゆるゲームやスポーツに興じ、多くの仲間たちとのふれ合いやたくさんの女性との恋愛に熱中しました。(まだ20代の若者ですからこれくらいごく普通と言うか当然ですね。)彼はこんな詩を残しています。

「青春は素晴らしい
しかしすぐに過ぎてしまう
だから大いに今を楽しもう
明日はどうなるか分からないのだから。」


まさに彼の価値観をそのまま表した分かりやすいものですね。こんな性格であったためか、同時代の年長のお堅い人々から「酒と女と遊びに耽る退廃者」などと言われる事もありました。しかしロレンツォは道徳も常識も良くわきまえており、特に家庭人としてもいささか社交的過ぎる面はありましたが良き夫であり、良き父親でした。(彼は当主となった翌年21歳で、ローマの名門貴族オルシーニ家の令嬢クラリーチェと結婚して7人の子供を儲けますが、祖父や父の様に正妻以外の女性との間に出来たいわゆる「私生児」は一人もいません。またとても子煩悩で子供たちを大変可愛がり、その教育にも熱心に気を配っています。)

そしてロレンツォは、祖父や父をはるかに凌ぐ芸術のパトロンとしても有名で、彼の治世、ルネサンスはその最高潮に達し、誰もが名前を聞いた事のある芸術家が活躍した時期でもありました。(レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、この3人が代表ですね。)

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ルネサンス芸術について網羅した本は上に載せたものが良書です。ページ数は127ページで、どの芸術家の作品がフィレンツェ市内のどこにあるか詳しく紹介されています。

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Mona_Lisa,_by_Leonardo_da_Vinci,_from_C2RMF_retouched

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)この人の名前と代表作「モナリザ」だけは小学生でも知ってるでしょう。絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など様々な分野に多くの業績を残し、「万能の天才」と称される人です。

465px-Michelangelo-Buonarroti1.jpg

次にミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564)彼もメディチ家の庇護の元で創作した人物です。彼も絵画や彫刻、建築などジャンルは問いませんでしたが、本人は自身を「彫刻家」であると言っており、事実彼は多くの彫刻作品を残しています。

Michelangelos_David.jpg

ミケランジェロの代表作「ダヴィデ像」。実はこのミケランジェロという人はかなり気難しいひねくれ者で、「他の者と同じは嫌だ」と言って当時タブーであった「裸体」ばかり造っています。さらに彼にとっては「男性の肉体」こそ美の極致であって、そのため彼は絵も彫刻も、女性は聖母マリアを除いてはほとんど描いていません。とても偏った天才でした。(余談ですが、上の「ダヴィデ像」は完成までに3年を要し、ミケランジェロが受け取った報酬は現在の日本円で1千万円ほどだったそうです。どういう計算で換算したのか不明ですが、3年がかりでこの金額という事はさほど高給だったわけではない様ですね。)

上の二人は生涯独身で、ダ・ヴィンチの方は若い弟子たちを寵愛し、ミケランジェロも20代前半の若者や15歳の少年などに宛てて彼が書いた詩の文面などから、どちらも同性愛者だったのではないかと云われていますね。

Sanzio_00.jpg

さらにもう一人の巨匠がラファエロ・サンティ(1483~1520)です。彼はフィレンツェ出身ではなく近郊の小国ウルビーノ公国出身で、主な活躍の舞台はローマでした。そのため直接にはロレンツォ率いるメディチ家とは係わってはいないのですが、フィレンツェには何度も滞在し、その間にレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を強く受けたそうです。

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彼は「聖母子の画家」と言われるほど聖母マリアと幼子イエスを描いた絵を数多く残しています。ちなみに下は彼が10歳の少年時代に描いた「自画像」だそうです。(美少年ですね。とても10歳の子供の絵とは思えません。)

Raphael_colonna_01.jpg

(ラファエロはダ・ヴィンチやミケランジェロと違い、ごく普通に好きな女性と恋愛したので健全です。笑 しかし残念な事に彼は短命で、37歳の若さでこの世を去っています。)

また上の3大巨匠とは別で、ロレンツォと最も親しく仲間として交際し、楽しく時を過ごしたのが下に載せたサンドロ・ボッティチェリ(1445~1510)です。

395px-Sandro_Botticelli_083.jpg

彼の代表作は「ヴィーナスの誕生」が有名ですね。何かで見た事がある人も多いと思います。

Sandro_Botticelli_-_La_nascita_di_Venere_-_Google_Art_Project_-_edited.jpg

彼らの作品や業績についてはこんな数行ではとても語り尽くせず、また他にもこの時代に活躍した芸術家は枚挙に暇が無いのですが、それは別の機会にいずれもっと詳しく触れたいと思いますので、今回はこの程度で終わらせて頂きます。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
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