メディチ家の戦い ・ ローマ教皇の謀略

みなさんこんにちは。

20代の若さでフィレンツェの指導者として政治、軍事、文化の面で卓越した指導力を発揮したロレンツォ・デ・メディチでしたが、その彼に人生最大の強敵が現れます。ロレンツォがメディチ家の当主となってから2年後に即位した、時のローマ教皇シクストゥス4世です。

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上がシクストゥス4世(1414~1484)彼は教皇に即位すると徹底した縁故同族主義(ネポティズム)で自分の一族を側近に登用し、これにより本来枢機卿の選挙(コンクラーベ)で選ばれる教皇位の、言わば「世襲化」を図った人物の一人でした。ロレンツォは当初は新教皇の即位を祝い、ローマに赴きますが、教皇はフィレンツェの近くのイーモラを買収すると言い出し、その費用をメディチ銀行に負担させようとします。当然ロレンツォが断ると、教皇はメディチ家の古くからのライバルであるパッツィ家に工面を依頼し、さらに1474年には教皇の甥であるジュリアーノ枢機卿(後の教皇ユリウス2世)に命じて別のウンブリア地方に傭兵を侵攻させました。

これに対しロレンツォはウンブリア近郊に6千の兵を差し向けてこれをけん制、これ以上の教皇の勢力拡大を阻止するため、ミラノ、ヴェネツィアと同盟を結びます。シクストゥス4世も南のナポリ王国と同盟し、さらにロレンツォへの報復として、メディチ家がロレンツォの曽祖父ジョバンニ・ディ・ビッチの代から独占して来た教皇庁の会計特権と教皇領内の明礬の採掘権を剥奪し、これをパッツィ家に与えてしまいました。

今度はメディチ家とパッツィ家の対立が激化しますが、フィレンツェ国内で圧倒的に有利な立場にいたロレンツォはパッツィ家の力を抑えるため様々な手段で彼らを妨害し、パッツィ家の激しい憎悪を買ってしまいます。やがてそれはロレンツォの暗殺計画に発展し、ついに1478年4月、教皇の暗黙の了解を得てそれが実行に移されました。これが「パッツィ家陰謀事件」です。

暗殺者たちはサンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂のミサの席上で、出席したロレンツォとジュリアーノ兄弟を狙いました。しかし計画はあえなく失敗し、暗殺者たちは捕らえられてしまいます。この事件で幸いにもロレンツォは軽い怪我で済みましたが、弟ジュリアーノは致命傷を負って亡くなってしまいました。

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上が事件現場のサンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂の正面と、暗殺されたロレンツォの実弟ジュリアーノ・デ・メディチ(1453~1478)まだ25歳の若さでした。

ロレンツォは弟ジュリアーノと大変仲が良く、最愛の弟を失った彼は激怒し、捕らえた暗殺者たちをただちに処刑して、見せしめのために市庁舎のヴェッキオ宮殿から吊るし、さらにパッツィ家当主以下一族と、陰謀に加担した関係者全ての者を処刑、逮捕、投獄し、その数は100名に登りました。こうして11世紀から続くフィレンツェきっての名門パッツィ家は断絶してしまいます。

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上は処刑された暗殺者たちが吊るされたヴェッキオ宮殿です。現在もフィレンツェ市庁舎として使用されています。

さて暗殺失敗の報を受けた事件の「黒幕」である教皇シクストゥス4世は、自分と結んでいたパッツィ家がロレンツォによって全滅させられた事に激怒し、ロレンツォとメディチ家はおろかフィレンツェ共和国そのものを「破門」してナポリ王国と組み、フィレンツェに宣戦を布告しました。これに対し、ロレンツォのフィレンツェもミラノに援軍を要請し、さらに全ヨーロッパ各国の王侯貴族に宣伝して、教皇の身勝手さと不当性を訴える外交戦を展開します。

教皇はロレンツォを追い詰めるため各方面に謀略の手を伸ばし、フィレンツェ陣営の切り崩しと離反を画策して「フィレンツェ包囲網」を形成。これによりロレンツォは窮地に立たされる事になりました。しかしここで彼の天性の政治、外交力がいかんなく発揮されます。彼は冷静に現在の状況を分析し、ローマ教皇の軍事的な後ろ立てがナポリ王国である点に注目すると、ナポリ王と直接交渉するため1479年ナポリを訪問して直談判におよびました。

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上が当時のナポリ王フェルディナンド1世(1423~1494)ロレンツォはおよそ2ヶ月滞在し、王と親交を深め、初めはロレンツォの人物を疑い様子を見ていたナポリ王も、ロレンツォの人柄と勇気に感銘し、ついに両者は和平を結ぶ事になり形勢は逆転します。(ナポリ王にとっても、教皇の勢力拡大は望ましいものではなく、さらに高齢で老い先短い教皇に味方するよりも、若いロレンツォと交流した方が今後有利と判断したのでしょう。)

ロレンツォのこの命を賭けた英雄的行為にフィレンツェ市民は歓呼し、彼はフィレンツェの「救済者」として迎えられ、「優れた政治家」としてその名声を内外にとどろかせました。しかしこれを憎らしげに見ていた人物がいます。教皇シクストゥス4世です。彼はロレンツォの活躍でナポリ王国が脱落した事によりせっかく造り上げた「包囲網」が瓦解した後も、フィレンツェに対する敵対姿勢を崩しませんでしたが、思わぬ外圧がロレンツォに味方します。1480年のオスマン帝国によるナポリ領オトラント侵攻です。

危機に陥ったナポリ王国は全イタリア各国に対イスラム共闘を呼びかけ、教皇に圧力をかけてフィレンツェとの講和を求めます。やむなく教皇はロレンツォと一時的に講和しますが、オスマン軍が退却すると1484年、再び戦争状態になります。しかし今度はナポリ王国が教皇に敵対したたために北のフィレンツェ、南のナポリに挟まれた教皇は打つ手が無くなって追い詰められました。形成が自らに有利と見たロレンツォは教皇に再度講和を求めて教皇もこれを受諾、その2年後に「稀代の謀略家」教皇シクストゥス4世が亡くなり、ようやく一連の戦乱が収束に向かいました。こうしてロレンツォは大きな代償を払いつつ、教皇との戦いに勝利したのです。

このシクストゥス4世は己が野心のために無用の戦乱を引き起こした「悪徳教皇」の一人として歴史に名を残す事になりましたが、荒れ果てていたローマの街の美化と補修、彼の名を冠したシスティーナ礼拝堂の建設や、バチカン図書館の拡充など、ルネサンスにおける彼の果たした文化面での役割は、メディチ家に引けを取らぬ大きなものでした。

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上がシスティーナ礼拝堂の有名な天井画(旧約聖書の天地創造)です。しかしこれはシクストゥス4世の死後24年も経ってからミケランジェロによって描かれたもので、創建当初は天井を天空に見立てて星空を配したシンプルなものだったそうです。そしてこのシスティーナ礼拝堂は、サン・ピエトロ大聖堂と並んでバチカンで最も人気のある観光スポットになっています。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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