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嵐の予感 ・ 偉大なる人の死

みなさんこんにちは。

銀行業の経営悪化によりお金に困り始めていたロレンツォでしたが、国家の指導者としての優れた政治力、外交力は終生いささかも衰える事はありませんでした。彼はこれまで述べて来た様に、フィレンツェとその周囲を取り囲む状況を冷静かつ的確に分析し、国内においてはメディチ家一党による支配体制を、対外的にはイタリア5ヵ国体制(フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ナポリ、教皇国)による勢力の均衡と、間にいくつかの小国を挟む事でこれをいわゆる軍事的緩衝地帯とします。(仮に戦争となってもこれらの地で戦闘を行えば自国領土に損害が及びませんからね。犠牲になる小国にとってはたまりませんが。)

Map_of_Italy_(1494)-it_svg.png

上がロレンツォが亡くなって2年後(1494年)におけるフィレンツェと周辺各国の勢力図で、オレンジ色の部分がフィレンツェ共和国です。

さらに彼はメディチ家の将来を考えて、歴代当主で初めてとなる野望の実現に動き出します。それはメディチ家から「ローマ教皇」を輩出する事です。

640px-Petersdom_von_Engelsburg_gesehen.jpg

このローマ教皇の治める教皇国はキリスト教カトリックの総本山であり、全ヨーロッパにおけるその宗教的権威は絶大で、各国の君主はローマ教皇の支持の有る無しでその政策に大きく影響を与えるため、教皇庁の動向に対して過剰なまでに神経を使っていました。また教皇国はイタリア半島の中央にあってフィレンツェと国境を接しており、先にロレンツォを散々悩ませたシクストゥス4世の様な野心家の教皇が即位すると当然無用な争いの元となり、常にフィレンツェの「頭痛の種」であったのです。

そこでロレンツォはそのローマ教皇庁に自分の子孫を入れる事で、このローマ教皇国をコントロールしようと画策したのです。(つまり悪い言い方をすればメディチ家による「乗っ取り」ですね。)もしメディチ家から教皇が出れば、これまで金はあっても言わば「成り上がり者」に過ぎなかったメディチ家が、全ヨーロッパの君主たちと肩を並べる「名門」となり、同時に教皇庁の莫大な財産を手に入れる事で、困っていたメディチ銀行の状況も一気に解決するからです。

ロレンツォには3人の息子がいましたが、その中の次男ジョバンニ(当時13歳の少年でした。)を1489年ローマ教皇庁に送り込みます。そして教皇庁内の人々に巨額の買収資金をばらまいて、ジョバンニを教皇の選挙権を持つ「枢機卿」になれる様取り計らいます。念願叶って3年後の1492年、ジョバンニは史上最年少の16歳で枢機卿に就任しました。(この彼の次男ジョバンニが後の教皇レオ10世となります。さらにロレンツォはメディチ家からの教皇選出を慣例化するため、彼の甥でパッツィ家事件で死んだ弟ジュリアーノの息子ジュリオをわが子同然に育て、そのジュリオも教皇庁に送り込みました。そしてジュリオも教皇庁内で順調に昇進し、後の教皇クレメンス7世となるのです。)

このロレンツォによるメディチ家の将来を見据えた計画は実に見事でした。なぜならこの事が、彼の死後フィレンツェを追放され、茨の道を歩む事になるメディチ家を救い、やがて正式な「君主」となって再びフィレンツェに返り咲く原動力になるからです。

こうして未来の「メディチ教皇」選出の布石を打ったロレンツォでしたが、彼自身は30代後半から次第に体調を崩すようになります。特に彼の父ピエロと同じ痛風に悩まされ、各地の温泉などの湯治療法の甲斐も無く病状は悪化する一方でした。(この痛風はメディチ家代々の家病であった様で、祖父コジモ、父ピエロをはじめ歴代の当主はほとんどこれにかかっています。)

病の悪化によりロレンツォは歳を追うごとに宗教心を強めていきました。そんな最中の1490年、フィレンツェに一人の「怪僧」が現れ、人々に「終末論」を吹聴し始めます。その名は修道士サヴォナローラ。彼は極端な禁欲的修行を積んだドメニコ会所属の修道士で、ロレンツォとメディチ家による支配と、その彼らのもとで長年に亘って享楽の日々を送ってきたフィレンツェ市民を猛烈に批判し、フィレンツェに対する「神の罰」と「神をも恐れぬ悪行三昧の限り」を尽くしたロレンツォの死を予言しました。

GirolamoSavonarola.jpg

上が修道士ジローラモ・サヴォナローラ(1452~1498)彼はその過激な言動から教会でも「問題児」扱いされ、地方に左遷され続けて来たのですが、ロレンツォを攻撃する彼自身の指示で、フィレンツェのサン・マルコ修道院の院長に就任します。(これはロレンツォの数少ない失敗の一つでした。彼はサヴォナローラを懐柔してうまく手なずけるつもりだったようですが、正真正銘の「狂信者」であるサヴォナローラには全くそれが通用しなかったからです。)彼は多くのフィレンツェ市民の前で連日激しい説教を行い、ロレンツォとメディチ家に代表される「退廃した」生活を改めて神への信仰に立ち返るよう訴え、市民の心を掴んで急速に影響力を拡大していきました。

そんな中でロレンツォの病は次第に悪化の一途をたどり、1492年には死期の近い事が誰の目にも明らかでした。この年フィレンツェでは3月に彼の次男ジョバンニの史上最年少の枢機卿就任を祝う祭典が盛大に執り行われ、また外でははるかに歴史的な出来事「コロンブスによる新大陸発見」などがありましたが、メディチ家では一族の誰もが偉大な当主亡き後の漠然とした不安にさいなまれていました。

この時メディチ家の人々の脳裏によぎったのは、一族の繁栄を築いたロレンツォの祖父コジモの予言めいた言葉でした。そしてその予言はやがて見事に的中し、一族に降りかかって来ます。コジモはこう言ったのです。

「50年もしない内に、わがメディチ家は追放されるだろう。だが私の造った建物は残るはずだ。」

1492年4月、「ロレンツォ・イル・マニフィコ」(偉大なるロレンツォ)と市民から慕われたメディチ家当主ロレンツォは43歳の若さで亡くなりました。彼の葬儀は国を挙げて盛大に執り行われ、遺体は最愛の弟である亡きジュリアーノの眠るメディチ家代々の聖堂であるサン・ロレンツォ聖堂に埋葬されました。(奇しくも聖堂の名が同じでした。)こうしてフィレンツェ共和国とメディチ家の「黄金時代」は、優れた政治家であり、強力な指導者だった彼を失った事で突如として終わり、以後彼らは再び嵐の様な時代の流れに激しく翻弄されて行く事になります。

次回に続きます。
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