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メディチ家の悪夢 ・ 屈辱のフィレンツェ追放

みなさんこんにちは。

1492年ロレンツォ・イル・マニフィコの死によって、メディチ家とフィレンツェは強力な指導者を失いました。そしてその後継者として新たにメディチ家の当主となったのは、亡きロレンツォの長男ピエロでした。(このメディチ家の人々ですが、どうも同じ名前を持つ者が多く、コジモ、ピエロ、ロレンツォ、ジョバンニ、ジュリアーノの繰り返しです。そのため区別する為にそれぞれ「あだ名」が付けられています。それを踏まえてお読みください。)

Agnolo_Bronzino_-_Piero_il_Fatuo.jpg

上がロレンツォ・イル・マニフィコの長男ピエロ・デ・メディチ(1472~1503)です。彼は父イル・マニフィコと同じ20歳で当主を継承しますが、傲岸不遜な性格で教養はありましたが人望がありませんでした。

亡きイル・マニフィコにはこの長男で後継者のピエロ、次男でローマ教皇庁に送り込んだジョバンニ、そして三男で温和なジュリアーノという息子たちがおり、彼は生前から息子たちをこう評していたそうです。

「私には3人の息子がいるが、一人は愚かで一人は賢く、そしてもう一人は心優しい。」

彼はあえて名指ししていませんが、上から順番に当てはめていけばおのずと誰の事を言っているか分かりますね。息子たちそれぞれの個性を良く表現しています。いずれにしても長男ピエロは、メディチ家の当主としてもフィレンツェの指導者としても、父には遠く及ばない人でした。

ピエロは父の死後権力を継承しましたが、政治もすでに破綻寸前であった家業の銀行業も、側近や大叔父などに任せ、自らは私的な享楽に興じて日々遊び暮らし(彼が父イル・マニフィコから受け継いだ所があるとすれば、唯一この「遊び人」的な部分だけでしょう。)その自分勝手で軽率な言動がメディチ家支持の有力者の失望と反感を買い、そのためフィレンツェ市民から父のロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なロレンツォ)というあだ名と対比して、ピエロ・イル・ファトゥオ(愚昧なピエロ)という有難くないあだ名を付けられています。(つまり典型的な「お坊ちゃま」育ちだった様ですね。)

彼はそれだけでなく、父イル・マニフィコがメディチ銀行の資金難のために勝手に莫大な財産を流用して仲が悪くなった分家のピエルフランチェスコ兄弟を冷遇したため、彼らとの対立がエスカレートしていきました。

そんな中の1494年9月、思いもかけない外圧がフィレンツェ共和国に襲い掛かります。フランス国王シャルル8世によるイタリア侵攻です。彼はイタリア半島の南部ナポリ王国の王位継承権を主張して8万とも9万とも云われる大軍を率いて突如イタリア半島に侵攻を開始します。

Charles_VIII_de_france.jpg

上がフランス国王シャルル8世(1470~1498)です。彼はフランス王国第4王朝に当たるヴァロワ朝第7代の王ですが、隣国スペインとの勢力争いからナポリ王国征服を狙っていました。(彼がナポリ王の継承権を主張したのは、ナポリ王国が元々は彼の王家であるヴァロワ朝の分家アンジュー家を王家としていたからですが、1442年にスペインのアラゴン王家がこれを征服し、50年以上奪われたままでした。シャルル8世はこれをスペイン王から奪い返す事に執念を燃やしていたのです。)

この危機にピエロ2世は、最初は父の代から続くナポリ王との友好関係から抗戦の準備をしますが、フランス軍が10万近い大軍である事を知るや態度を一変させ、すでにミラノを通過してフィレンツェ北部にいたシャルル8世の陣営に自ら赴いて勝手に王と交渉し、ピサとリヴォルノなどの重要な都市の領有権の放棄や多額の賠償金の支払いという悪条件を呑まされた挙句、フランス軍のフィレンツェ領通過を承諾してしまう大失態を犯します。

640px-Firenze-palazzo_vecchio_24.jpg

いかにメディチ家の支配下にあるとはいえ、本来この様な重大な決定は共和国議会で決すべきであるのに、ピエロ2世はほぼ独断で領土の放棄や、シャルル王率いるフランス軍のフィレンツェ入城を認めてしまった事から市民は激怒し、彼がフィレンツェに戻るとメディチ家の周囲はまさに四面楚歌で非常に危険な状態でした。

身の危険を察知したピエロ2世はここに至り、ジョバンニ、ジュリアーノの二人の弟たちをはじめ、メディチ家の主だった人々と供にあるだけの財宝を持ってフィレンツェを脱出し、ボローニャへ逃亡しました。共和国政府はこのピエロ2世率いるメディチ家一党の共和国への「裏切り行為」を糾弾し、メディチ家のフィレンツェからの「永久追放」を宣言。これによりコジモ・デ・メディチ以来4代60年続いたメディチ家によるフィレンツェ支配は一旦終わります。

同年11月、シャルル8世率いるフランスの大軍はフィレンツェに無血入城を果たし、主のいなくなったメディチ家本邸を司令部とします。そしてこの時期にメディチ銀行も正式に破綻し、その負債の回収とばかりにそれまでにピエロ2世らが持ち出す暇のなかった多くの財宝が共和国政府や市民によって略奪され、残りもフランス軍が接収していきました。

こうしてヨーロッパでも指折りの大富豪であり、権勢を振るったメディチ家の支配はあっけなく崩壊し、その後彼らは十数年に亘って放浪の身に甘んじる事を余儀なくされます。このメディチ家にとっての「悪夢」は、先の当主イル・マニフィコの早過ぎた死、後継者ピエロ2世の指導能力の欠如、そして何よりシャルル王のイタリア侵攻という様々な複合原因が重なって起きたものですが、時代がそれまでのフィレンツェやミラノの様な都市国家に代表される小国乱立の均衡体制から、広大な領土を持つ絶対王政の大国同士の覇権争いにシフトしていった事も見逃せないでしょう。そしてシャルル8世のイタリア侵攻に始まる戦乱はその後160年続き、周辺十数カ国を巻き込む「イタリア戦争」と呼ばれる長期の戦争に発展していく事になります。

さてフィレンツェを追放された(実際はそれより先に逃亡していたのですが。)ピエロ2世率いるメディチ家はその後どうなったのでしょうか?

大抵の場合この種の一族はその後没落して歴史から消えていくのですが、このメディチ家という一族はそんな「ヤワ」な一族ではありませんでした。ここでめげずにしぶとく生き抜いたのがメディチ家です。彼らはこの「どん底」の時期から驚異的な力を発揮して這い上がり、やがてここから再びフィレンツェに復権を果たす事になります。


次回に続きます。
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