メディチ家の逆襲 ・ 栄光を取り戻せ

みなさんこんにちは。

1494年のフランス軍侵攻でメディチ家を追放し、束の間の共和制を復活させていたフィレンツェ共和国でしたが、追放されたメディチ家の人々はその後どうしていたのでしょうか?

実は彼らは混乱するイタリア各地を転々としつつ、追放される失態を招いた張本人である当主ピエロ2世を頭に一族の主力メンバーは健在でした。そしてフィレンツェ奪還の軍事行動を起こすためにその拠点をローマに置き、復権の機会を虎視眈々と狙っていたのです。

ピエロ2世はまず1497年4月に手持ちの資産で傭兵部隊を集めると自ら兵を率いて最初の反撃を開始します。しかしこれはあえなく失敗し、それに懲りて今度は策を講じ、同年8月に一族の者を送り込んでフィレンツェにクーデターを起こさせようとしました。ですがこれも事前に計画が発覚し、送り込んだ反乱メンバー5人は処刑されてしまいます。(「愚か者」と言われつつピエロ2世もメディチ家復権のために一定の努力はしています。しかし残念ながら彼の打った手はその計画の稚拙さからことごとく失敗し、また時も運も彼に味方しませんでした。)

1503年10月ピエロ2世は時の教皇アレクサンデル6世の息子で教皇軍総司令官であった悪名高いチェーザレ・ボルジア(1475~1507)の軍勢と行動を供にしていましたが、その戦闘の最中にナポリ近郊のガリリャーノ川で溺死し、無念の最後を遂げました。そのためピエロ・ロ・スフォルトゥナート「不運なピエロ」というあだ名で呼ばれる事になります。いずれにしてもこれによりメディチ家当主の座は次弟であるジョバンニ・デ・メディチ枢機卿が引継ぎ、以後メディチ家復権の事業は彼によって行われる事になりました。

兄ピエロ2世の死によってメディチ家当主となったジョバンニ・デ・メディチ枢機卿ですが、彼は父イル・マニフィコの血を最も良く受け継いだ人物で、政治、政略に長け、メディチ家のDNAともいうべき芸術と文化のパトロンであり、さらに社交的で父譲りの「遊び好き」でした。

彼は父イル・マニフィコによって少年時代に「未来のメディチ教皇」となるべくローマ教皇庁に送り込まれ、イル・マニフィコが亡くなる直前に史上最年少の16歳で枢機卿に就任(イル・マニフィコは息子の枢機卿就任のために2万フィオリーノ、現在の日本円で約24億円もの買収資金を使っています。)しましたが、1494年のメディチ家追放によってフィレンツェを追われ、一族と供にヨーロッパ各国を転々としながら最終的にローマを本拠とします。(しかしかつて権勢を誇ったメディチ家の威光は今だに健在で、彼らが行く先々で大歓迎され、追放の際持ち出した財宝の一部や他国に持つ資産も巨額のものだったため、メディチ家一門の生活ぶりは何の不自由も無い豪勢なものだった様です。)

1503年に教皇アレクサンデル6世が亡くなると、次の教皇ユリウス2世の即位に尽力して重用され、側近としての地位を確かなものとします。折りしもイタリア半島はフランスの介入によって戦乱の真っ只中にあり、教皇ユリウス2世はフランスの脅威を打破するため、1511年ナポリ・スペインと同盟してこれを撃破、ジョバンニ枢機卿も教皇軍に同行して当時フランス側に付いていたフィレンツェに迫りました。

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上がメディチ家の強力なパトロンであった教皇ユリウス2世。(1443~1513)画像ではサンタクロースを思わせる優しそうな老人の印象ですが、実際はかなり気性の激しい好戦的な人物で、その辣腕ぶりから「恐るべき教皇」と呼ばれ、さらに戦争ばかりしていた事から「軍人教皇」とも呼ばれています。しかしその反面芸術や文化の力でローマ教皇庁の権威を取り戻す事に心血を注ぎ、さらに内政でも教皇庁の機構を改革して国庫収入を大幅に増大させ、その豊かな資金を背景にサン・ピエトロ寺院の新築、バチカン宮殿の大拡張などの公共事業に着手し、それらを壮麗なものとするため各方面から芸術家を集めました。そのため彼の治世からルネサンスの中心はフィレンツェからローマへと移って行く事になります。

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上の画像の一枚目が現在のサン・ピエトロ大聖堂。「サン・ピエトロ」とはキリストの最初の弟子であり、キリストの死後このローマで布教し、ローマ帝国に処刑された「聖ペテロ」の墓がここにあった事から建てられたものですが、(これゆえに聖ペテロは「初代教皇」とされ、歴代ローマ教皇がキリストの後継者を自認する根拠となっています。)実はこれは2代目で、元々は4世紀のキリスト教公認後のローマ帝国時代末期に造られたものがありました。それが2枚目の画像ですがさすがに創建から千年が経過して老朽化が激しく、また内外装とも質素で壮麗さに欠けるものでした。そこでローマ教皇庁の権威高揚のため、ユリウス2世の代に大々的な新築工事が行われたのです。3枚目は同じ目的で拡大された教皇の住むバチカン宮殿です。

1512年9月、スペイン軍を主力とする教皇軍はフランス軍を撃退すると北上し、フランス軍撤退によって無防備であったフィレンツェ政府に対し、降伏と指導者ソデリーニの追放、メディチ家の復帰を通告します。フィレンツェ政府はやむなくこれを受諾してソデリーニは亡命、ジョバンニ枢機卿は1500のスペイン軍を率いてフィレンツェに入城、先に入国していた弟ジュリアーノ、従兄弟のジュリオらと合流し、見事フィレンツェに帰還しました。

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1494年の追放以来実に18年ぶりにメディチ家は悲願のフィレンツェ復権を果たしたのです。この時の彼らの喜びはどれほどのものであった事でしょうか。

ジョバンニ枢機卿率いるメディチ家一党はフィレンツェ復権を果たすと共和国の政治行政機構をかつてのメディチ家時代の体制に戻してメディチ家支配の復活を急ぎます。そのスタイルは一族興隆の祖であるコジモ・イル・ヴェッキオの取ったいわゆる「裏からの支配」を踏襲するもので、表向きは共和制を尊重しつつ議会と政府の要職の全てをメディチ派が握るというものでしたが、さらにジョバンニ枢機卿は用心深くこれをローマから統治する事にしました。つまり重要な決定はローマで彼が行い、その指令を受けた弟たちや腹心の幹部らによってフィレンツェを支配していくというものです。

これは前回の追放の際、危うくメディチ家一門全てが根絶やしになる所だった反省から、リスクを分散する事が目的だったものと思われます。同時にフィレンツェ市内には、それまで戦時の時だけ集めていた傭兵部隊を常時駐留させて市民の動きに睨みを利かせました。これによりメディチ家の支配は以前よりはるかに強化され、以後フィレンツェではメディチ家に対する反乱を起こす事が困難になります。

こうしてフィレンツェ支配の足元を固めたジョバンニ枢機卿は復権後しばらくの間、温和な文化人で、市民にも人気のあった弟ジュリアーノをフィレンツェの表向きの指導者とし、実際は当主の自分が全てを指示するという形で統治していましたが、その矢先に教皇ユリウス2世が亡くなり、新たな教皇選挙のためローマに帰国します。そして彼は亡き父イル・マニフィコから課せられた、メディチ家の将来を左右する大きな「野望」実現のために動き出していく事になります。

次回に続きます。
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