メディチ教皇の誕生 ・ 君主への道

みなさんこんにちは。

屈辱の追放から18年の時を経て、ついに念願のフィレンツェ復帰を果たしたメディチ家でしたが、当主ジョバンニ枢機卿にはまだ大きな仕事が残っていました。いや実はこれこそ本来彼が、父イル・マニフィコからその全てを捧げるよう与えられた「生涯の使命」と言ってもいいでしょう。それは自らの教皇即位です。

彼らメディチ家がフィレンツェ復帰を果たした半年後の1513年3月、教皇ユリウス2世が亡くなり、次の教皇を決める枢機卿たちの選挙(コンクラーベ)が行われる事になり、枢機卿であるジョバンニも当然それに参加すべく、弟ジュリアーノにフィレンツェを任せるとローマに戻ったのですが、実はこの時点での彼は、決して次期教皇の有力候補だったわけではありませんでした。

しかし父イル・マニフィコの代から20年以上積み上げてきた枢機卿としての経験と、父譲りの社交的で才知に富んだ性格、さらに30代後半という若さにもかかわらず病弱で健康状態があまり良くないという意外な理由から(これは即位しても長命でないという予測も重要な判断理由だったからだそうです。)急速に最有力候補として浮上し、1週間の密室協議の末ほとんど買収行為が無いという極めて稀なケースで新教皇に選出され、レオ10世として即位します。

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上が初のメディチ教皇レオ10世です。(1475~1521)メディチ家からローマ教皇を出し、ローマ教皇国を支配してメディチ家をヨーロッパの王侯と肩を並べる名門にするというロレンツォ・イル・マニフィコの計略は、20年の時を経てようやく実現したのです。この時メディチ家一門はもちろんの事、フィレンツェでもこの街で初めての教皇誕生に市民が狂喜し、お祭り騒ぎが何日も続いたそうです。

レオ10世は気性の激しい先代のユリウス2世とはまるで正反対の、柔和で社交的な享楽主義者であり、またフィレンツェの豊かな知的環境で優れた教育を受けた多彩な文化人でした。また政治、外交面でも能力を発揮しています。彼は最初はイタリア半島中央部にメディチ家を君主とする大公国を建国する事を目論んでいましたが、1515年にフランス国王となったフランソワ1世がイタリアに侵攻すると、この計画を諦めてフランソワ1世と交渉し、フランス国内の聖職者の叙任権(任命権)を譲る代わりに侵攻を止める事を認めさせます。それ以後も再三に亘りイタリア半島に手を伸ばすフランスに対し、当時のイタリア半島諸国とスペイン、神聖ローマ帝国などの勢力バランスをうまく利用し、これを何度も退けました。

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上がフランス王フランソワ1世(1494~1547)彼はヴァロワ朝第9代の王で、フランス王でありながら後にスペイン・ハプスブルク家のカール5世と神聖ローマ皇帝の座を争い敗北します。他にも多くのエピソードがあり、現在でもフランスで最も人気のある国王だそうです。

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その頃フィレンツェではレオ10世の弟で、上に載せたジュリアーノが統治していましたが、彼は元々温和な文化人であり、権力支配には向かなかったためにローマの兄の下に呼ばれ、1516年に37歳の若さで亡くなります。代わって甥のロレンツォ2世が新たな統治者となっていましたが、(このロレンツォ2世というのはレオ10世の兄だったピエロ2世の息子です。)この人は父ピエロ2世に似て傲岸不遜で権力欲の強い人物でした。

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上がロレンツォ・デ・メディチ2世(1492~1519)彼は叔父のジュリアーノとはまるで正反対の野心家で、フィレンツェの隣国ウルビーノ公国を力ずくで奪い取ると「ウルビーノ公」を名乗り、その戦いで多大の出費を負わされたフィレンツェ市民から大変嫌われます。「貴族」となった彼はその後フランス王族の娘と結婚して娘カテリーナを儲けますが、無茶が祟ったのか27歳の若さで没します。そして彼の残した娘カテリーナが、後のフランス王妃として権勢を振るい、「悪女」として名高いカトリーヌ・ド・メディシスです。

さてレオ10世に話を戻しますが、彼は政治、外交に長けているだけでなく、先に述べた様に父イル・マニフィコ譲りの大変な享楽主義者であり、そしてお金に無頓着な超浪費家という点でも父譲りでした。彼はローマをフィレンツェ以上の華麗な宮廷文化の中心とするため、ありとあらゆる遊興、音楽、演劇、舞踏会、見世物、祝祭、スポーツ、美食を尽くした宴会を催し、彼のもとにはイタリア中から銀行家、貴族、学者、芸術家、文化人などが集まり、享楽的気分に満ちた一大宮廷社会が形成されます。

また彼は芸術と文化のパトロンとしても、惜しみなく金を注ぎ込みました。彼は歴代の教皇がしてきたローマ教皇庁の権威回復の事業を引き継ぎ、多くの芸術家たちを登用します。中でもラファエロは彼のお気に入りで、バチカン宮殿を飾る壁画の多くを発注し、上に載せたレオ10世自身の肖像画もラファエロの作によるものです。

こうして湯水の様に金を使い続けた結果、ローマ教皇国は未曾有の財政危機に陥ります。彼の教皇在位はわずか8年余りでしたが、「彼は教皇3人分の収入を1人で食い潰した。」と言われ、彼が在位中に使いまくった金額は総額450万フィオリーノ、これまでに何度か述べた様に1フィオリーノが現在の日本円で約12万円ですからおよそ5400億円という巨額の浪費であったそうです。そのためそれらを補うために莫大な借金と大掛かりな聖職売買が行われ、その数は1200以上に登りました。つまり金次第でいくらでも司教とか大主教とか枢機卿などといった位を与えたのです。

そうした中で最も彼の名を(悪い意味で)有名にしたのが「免罪符」の売買でした。これは簡単に言えば「この免罪符を買えば過去に犯した罪は神の許しを得られる。」という呆れたもので、もとは十字軍の時代の戦費調達などで発案されたらしいのですが、レオ10世はこれを大量に発行して人々に買わせ、その金で遊興に耽る毎日を送ったのです。

しかしこの「免罪符」が後にローマ教皇庁はおろか、全ヨーロッパを巻き込む大戦争の引き金になろうとは、この時誰も予想だにしませんでした。そしてそれによって、メディチ家とフィレンツェの運命も大きく影響を受けていく事になるのです。

次回に続きます。
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