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退廃の都 ・ 悪夢のローマ略奪

みなさんこんにちは。

念願のローマ教皇に即位し、その権威と影響力で世のあらゆる栄華を欲しいままにしたレオ10世でしたが、そのあまりの散財ぶりにせっかく先代教皇ユリウス2世が蓄えたローマ教皇国の国庫はすっかり空になってしまいました。彼は故郷フィレンツェはおろか各国の銀行から莫大な借金をし、これまで歴代教皇がバチカンに飾り立ててきた絵画や家具などの調度品、金銀の食器まで「担保」に出し、それでも足らずについに手を出してはならない代物に手を伸ばします。それが「免罪符」です。

この免罪符は前回お話した様に、「これを買えば過去の罪は全て神の許しを得られ、死んでも天国にいける。」という子供じみたものでしたが、レオ10世はこれを大量に発行し、身分の上下を問わず全ての階級の人々に売り出し、その収入で遊興三昧の日々を送っていました。(まだ「科学」というものが無く、「この世の終末」や「天国と地獄」などを信じていた迷信深い中世の人々の事です。たくさんの無名の人々がこれを買い求めました。)

しかしこの免罪符に対して激しい批判を浴びせた人物がいました。ドイツの神学者マルティン・ルターです。

MARTIN~1

上が神学者マルティン・ルター(1483~1546)彼は免罪符以前から始まっていた教会の腐敗と堕落を「95か条の論題」と称して痛烈に批判し、それがもとで始まる「宗教改革」の創始者となりました。この宗教改革は後にドイツ神聖ローマ帝国を中心として全ヨーロッパを巻き込む一連の宗教戦争へと発展し、キリスト教はカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)に分かれる事になります。(プロテスタントとは、ラテン語でカトリックに対する「抗議」という意味だそうです。)

この宗教改革の嵐は瞬く間に広がり、プロテスタント勢力によるカトリックへの攻撃にはさすがの教皇レオ10世も手を付けられず、劣勢に立たされた彼は態勢を挽回しかつこれを叩き潰すため、1521年それまで協調していたフランスと手を切り、代わって同じカトリックである神聖ローマ皇帝カール5世を味方にしてこれに対抗しますが、その矢先にもともと病弱であった彼は風邪をこじらせ、46歳でこの世を去ります。

新たな教皇としてカール5世の元家庭教師であったオランダ出身のハドリアヌス6世(1459~1523)という人物が立ちますが、厳格な学者であった彼は先代レオ10世とは対照的な堅物で、レオ10世の残した莫大な負債もあり、(レオ10世はおよそ60万フィオリーノ、現在の日本円で約720億円もの負債を残したそうです。ハドリアヌス6世にとっては大迷惑だったでしょうね。)極端な緊縮財政でローマは活気が無くなり、華やかな雰囲気は一変します。(しかしこの人物はすでに高齢であったため、わずか1年半の在位で亡くなります。)

そして1523年次の教皇として即位したのがレオ10世の従兄弟ジュリオ枢機卿です。(彼は教皇クレメンス7世として即位します。)

Pope_Clement_VII.jpg

上がクレメンス7世(1579~1534)彼はメディチ家2人目の教皇で、かつてパッツィ家反乱事件で暗殺されたイル・マニフィコの弟ジュリアーノの息子です。彼はレオ10世と同じくイル・マニフィコの命により少年時代にローマ教皇庁に送り込まれ、未来の教皇となるべく仕立てられた人物で、従兄弟のレオ10世とも仲が良く、彼の忠実な側近として良く仕え、枢機卿時代までは有能な実務家でしたが、いざ自分が教皇として頂点に立つと、優柔不断で決断力に欠け、結果として失政を重ねる事が多くなります。

クレメンス7世は最初は従兄弟のレオ10世の方針を踏襲し、神聖ローマ皇帝カール5世側に付いていましたが、フランス王フランソワ1世に勝利し、勢いに乗るカール5世の力があまりに強大すぎて全イタリア半島までも支配下に置く勢いであったため、これを憂慮した彼は1526年5月、反撃するフランソワ1世と、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェも合わせて同盟し、皇帝側に反旗を翻します。

CARLOS~2

上が神聖ローマ皇帝カール5世(1500~1558)ハプスブルク家出身の彼は、父からドイツ神聖ローマ帝国とネーデルランド(オランダ・ベルギー)を、母からはスペイン王国を受け継ぎ、その類い稀な軍事の才能で連戦連勝を重ね、事実上当時の全ヨーロッパ最強の皇帝でしたが、その人生はライバルのフランス、したたかな歴代のローマ教皇やプロテスタント反乱勢力、東のオスマン帝国など、次から次へと現れる敵とのいつ果てるとも知れない戦いに明け暮れる多忙なもので、晩年彼は持病の痛風と自らの広大な帝国の統治と戦争に疲れ果てて退位し、修道院に引退してしまいます。(晩年は亡き愛妻と過ごした日々の思い出だけが彼の唯一の救いだったそうです。)

さて教皇クレメンス7世の包囲網に対してカール5世はただちに反撃に転じます。皇帝はローマの貴族コロンナ家をそそのかして反乱を起こさせ、教皇のいるバチカン宮殿を散々に荒らしました。辛くもサンタンジェロ城に避難した教皇に対し、皇帝はさらに追い討ちをかけます。翌1527年5月にドイツ傭兵団とスペイン軍からなる合計2万の強力な軍団を差し向けたのです。しかしこれはカール5世の失敗でした。実は皇帝軍の主力部隊である傭兵たちの多くがカトリックを憎むプロテスタントであり、長い戦いで金も食糧も底を着いていた彼らはローマ市内になだれ込むと統制を失った暴徒と化して掠奪の限りを尽くして暴れ回りました。

640px-Angyalvar036.jpg

上が教皇クレメンス7世が逃げ込んだサンタンジェロ城です。「城」と言っていますが、実はこれはもとはローマ帝国第14代皇帝ハドリアヌスの霊廟だったものを城塞に改造したものです。

800px-Sack_of_Rome_of_1527_by_Johannes_Lingelbach_17th_century.jpg

上はローマに侵攻したドイツの傭兵たちの姿を描いた「ローマ略奪」の絵です。奪い取った掠奪品を並べて城外で一休みしている所でしょうか。

このローマ略奪はローマ帝国末期の5世紀に西ゴート族の襲撃を受けた時から数えて千年ぶりのもので、この時の虐殺によりローマ市民の死者はおよそ8千人以上に登り、市内のあらゆる建物が破壊され、財宝は奪い取られました。もちろんこの様な命令をカール5世が命じたのではありません。しかし偶発的出来事で防ぎ様が無く、後でこれを知った皇帝は大変悔やんだそうです。そしてその事態を招いた張本人である教皇クレメンス7世はこの事態に何も出来ず、半年以上もサンタンジェロ城に籠城し(というより出られないから幽閉状態です。)皇帝軍との交渉でその包囲を解く代わりに莫大な賠償金(記録では40万フィオリーノ、およそ480億円)と複数の重要都市の支配権の放棄などを認めさせられます。

このローマ略奪の知らせは各方面にトップニュースとして伝えられ、堕落した「退廃の都」ローマに恐るべき神の罰が下されたのだと人々に受け止められ、激しい衝撃を与えました。そしてこの事が、やがてフィレンツェに悲惨な戦禍をもたらす事になってしまいます。

次回に続きます。
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