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フィレンツェ包囲戦 ・ 共和国の終焉と公国の誕生

みなさんこんにちは。

1527年5月神聖ローマ皇帝カール5世の差し向けた傭兵主力の2万からなる皇帝軍によって引き起こされたローマ略奪で、ルネサンスの都として復活しつつあったローマは荒れ果て、皇帝に歯向かった教皇クレメンス7世は莫大な賠償金を負わされて完全に敗北してしまいました。

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上が晩年の教皇クレメンス7世。そんな傷心の教皇にさらに追い討ちをかける様に、フィレンツェから最悪の知らせが入ります。ローマ略奪からわずか10日後に、それまで押さえつけられていた反メディチ派によるクーデターが勃発し、教皇が統治を任せていた息子のアレッサンドロと亡き従兄弟ジュリアーノの息子イッポリト、さらにまだ若い彼らの補佐役として教皇が派遣していた部下のパッセリーニ枢機卿らを追放してしまったのです。

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上がアレッサンドロ・デ・メディチ(1510~1537)と下がイッポリト・デ・メディチ(1511~1535)この2人は後にフィレンツェの支配権を巡って争う事になります。

このアレッサンドロとイッポリトの2人は粗暴で我がまま、ごう慢な性格で、彼らの後見人であったパッセリーニ枢機卿も陰険かつ非情な人物として市民から大変嫌われていました。そのため反乱はこれら市民の支持を得て成功し革命政府が成立、メディチ家は1512年の復権以来15年の時を経て、再びフィレンツェを追われる事になってしまいました。

この事態に教皇はそれまでの方針を転換して皇帝カール5世との和睦を急ぎます。皇帝の強大な軍事力でフィレンツェの革命政府を叩き潰し、フィレンツェにメディチ家を世襲の君主とする公国を樹立させるためでした。

1527年9月スペインのバルセロナで皇帝カール5世と教皇クレメンス7世との間で正式な和睦が成立します。その内容は教皇は教皇国を除く全イタリア半島の皇帝の支配権を認める代わりに、皇帝はフィレンツェにおけるメディチ家の世襲支配を認め、「公爵」の位を与えるというものです。皇帝側は約事通りにフィレンツェに対して降伏とメディチ家の復帰を要求しますが、革命政府はこれを拒否、これによって教皇・皇帝同盟軍とフィレンツェ革命政府との開戦は避けられない状況となりました。

同年秋、4万からなる皇帝軍はフィレンツェを包囲、迎え撃つフィレンツェ市民軍との間で「フィレンツェ包囲戦」の幕が切って落とされました。市民軍は市内に籠城し、堅固な城壁を楯に果敢に抵抗しますが、皇帝軍はフィレンツェを完全に包囲し、兵糧攻めと攻撃を繰り返しつつ敵の疲弊を待つ持久戦を展開したため、食料の尽きたフィレンツェ側は10ヶ月の死闘の後、およそ3万の犠牲者を出して降伏します。(革命政府のメンバーは全員処刑され、反メディチ派の市民も全て永久追放となり、12世紀の自治都市成立から400年続いたフィレンツェの共和制はここに幕を閉じます。)

凄惨かつ悲惨なフィレンツェ包囲戦が終わると教皇クレメンスは息子アレッサンドロと一族の者を再びフィレンツェの統治者として送り込み、メディチ家の支配を再確立させます。そして2年後の1529年、アレッサンドロは皇帝カール5世から「フィレンツェ公」の位を与えられ、ここにメディチ家は正式に君主となり、同時にフィレンツェはそのメディチ家を君主とする「フィレンツェ公国」となりました。

激変するイタリア情勢の最中にあって、思う様な政治が出来なかった教皇クレメンス7世にとって、もはやメディチ家の安泰と繁栄を築き上げる事が唯一の望みでした。晩年の教皇はこの一事に大変執着し、皇帝家との結びつきをさらに強めるため息子アレッサンドロとカール5世の皇女マルガレーテの結婚を画策、さらに彼はフランス王家とも緊密な関係を築くため1533年10月、亡き従兄弟の先々代教皇レオ10世の姪にあたるカテリーナとフランス王フランソワ1世の第2王子アンリ(後のフランス王アンリ2世)を結婚させます。

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上がカテリーナと下がアンリ2世と婚礼を挙げるカテリーナです。彼女は後にフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス(1519~1589)となり、夫アンリ2世の死後王子たちの後見人(事実上の摂政)として30年に亘りフランス王国に君臨する事になります。

しかしこうした教皇のなかば強引な政略に反発していた者がいました。かつて教皇の子アレッサンドロとともにフィレンツェを共同統治していたイッポリトです。彼は教皇が息子アレッサンドロを優遇してフィレンツェ公にした事に憤慨し、アレッサンドロに対して嫉妬と敵意を持っていました。

もともと軍人志望で気性の激しかった彼は、教皇がその埋め合わせに枢機卿の位を与えてもすぐに返上してしまい、やむなく教皇は対オスマン帝国の教皇軍司令官に任命していわば厄介払いしますが、1534年に教皇が亡くなると、彼はアレッサンドロの暗殺を企てて失敗、次に彼は皇帝カール5世に対してアレッサンドロの暴君ぶりを(自分の事は棚に上げて)書状で訴えるなどして世を騒がせました。

しかしすでに「フィレンツェ公」の位を与えてしまったアレッサンドロを今さらすげ替えるわけにもいかず、皇帝はイッポリトの訴えを退けて相手にしませんでした。彼は失意の内にマラリアにかかり、1535年8月に急死します。(これは当時からアレッサンドロの配下の者によって逆に毒殺されたのではないかと言う噂があった様ですが、真相は謎のままです。)

さて政治面では失政の多かった教皇クレメンス7世でしたが、メディチ家の遺伝子である芸術、文化のパトロンとしてはそれなりの功績を残しています。彼はラファエロとミケランジェロを重用し、特にミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の壁にあの有名な「最後の審判」を描かせた事が最大の功績でしょう。

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上がシスティーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」です。これも何かで一度は見た事がある方も多いのではないでしょうか。

クレメンス7世は他にも彼らに芸術作品を発注していますが、先々代の教皇レオ10世に始まる莫大な負債もあってローマ教皇国の財政は苦しく、あまり多くのパトロンは出来無かった様です。彼は1534年9月に56歳で亡くなりますが、予測のつかない激動のイタリア情勢の中で、ついにメディチ家をフィレンツェの君主とする事に成功し、その後に成立する「トスカーナ大公国」の君主としてさらに200年続くメディチ家の繁栄の礎を築いたのは評価出来るでしょう。しかしそのあまりのメディチ家偏重主義によって大混乱を招き、その結果ローマ略奪やフィレンツェ包囲戦などの様な大きな犠牲が出てしまった事も事実です。そのため教皇が亡くなった時、彼の死を悼む者は誰もいなかったという事です。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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