トスカーナ大公国の成立 ・ 栄光の再来 1

みなさんこんにちは。

メディチ教皇クレメンス7世が1534年に亡くなると、次の教皇にはイタリア屈指の名門貴族ファルネーゼ家出身のパウルス3世(1468~1549)が即位し、メディチ家の後ろ盾はドイツ神聖ローマ帝国皇帝カール5世に移りました。

新教皇は前教皇クレメンス7世の失敗から、台頭著しいプロテスタント勢力との対話と共存の道を図ろうとしますが、厳格なカトリックの皇帝カール5世はこれを認めず、両者は(今に始まる事ではありませんが。)次第に対立して行きます。

当時のメディチ家の当主は、前回お話した様にアレッサンドロ・デ・メディチという人物で、皇帝カール5世から「フィレンツェ公」の位を与えられ、皇帝の娘マルガレーテと結婚してフィレンツェにメディチ家を世襲の君主とする「フィレンツェ公国」を樹立していましたが、生来の粗暴で放蕩な性格から周囲の反感を買い、1537年1月、一族の者によって暗殺されてしまいました。

後には彼の息子でまだ赤子のジュリオしかいなかったため、メディチ家の重臣たちは次の後継者としてメディチ分家のコジモを新たな当主として迎えます。(このメディチ分家はイル・マニフィコの時代に彼に資産を横領されたピエルフランチェスコ兄弟の子孫で、メディチ本家の横暴勝手に振り回されながら時には対立しつつも影で支えた一族でした。)

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上が初代トスカーナ大公コジモ1世(1519~1574)彼は曽祖父ロレンツォ・イル・マニフィコ以来の優れた政治、外交手腕を発揮し、さらに軍事にも秀でた有能な君主で、彼が築いたトスカーナ大公国はその後1737年のメディチ家断絶まで200年間揺らぐ事なく続きました。

実はこの時メディチ家の重臣たちは、まだ若い彼を名目上の当主とし、実権は自分たちが握るつもりでいた様です。しかし彼らのこの思惑は早々に打ち砕かれてしまいます。それは彼らにとって予想外だった事にコジモ1世はとても有能で強固な意志と断固たる決断力を備えた英邁な君主であったからでした。

コジモ1世は当主となると、まずメディチ家に対する反対勢力を撃破します。そして捕らえた反対勢力の指導者たちを容赦なく全員処刑して反対派への見せしめとします。(人々はこれに恐怖し、以後反対勢力はすっかり鳴りを潜めてしまいます。)

コジモ1世のこの勝利をメディチ家の後援者である神聖ローマ皇帝カール5世は高く評価し、第2代フィレンツェ公コジモ1世として彼を認め、こうして彼は名実ともに君主としての地位を確立しました。その後彼は1539年、皇帝の勧めでスペインの大貴族トレド公の公女エレオノーラと結婚し、皇帝とスペイン両方との緊密な関係を構築します。

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上がコジモ1世の公妃エレオノーラ(1519~1562)画像からも分かる様に清楚な美人だった彼女はコジモ1世との間になんと11人もの子に恵まれ、夫コジモ1世も喜怒哀楽が激しい所はありましたが良き夫であり、家庭生活は幸福でしたが晩年は体調を崩し、愛妻家であった彼は妻のためにピッティ宮殿を買い取って住まいとしたり、ピサに静養させたりと大変気遣ったそうです。しかしその甲斐なく彼女は43歳の若さでマラリアで亡くなります。

コジモ1世はその後自らの権力基盤を固めるため、それまでフィレンツェ市内に分散していた各官庁を集め、市庁舎であるヴェッキオ宮殿の隣に新たな統合官庁を設置しました。これはパラッツォ・デリ・ウフィツィ(諸官庁)と呼ばれ、今日の「オフィス」の語源になったと言われています。

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上がそのウフィツイとその内部(後方に市庁舎であるヴェッキオ宮殿が見えます。)現在はメディチ家が収集した美術コレクションを展示するウフィツィ美術館となっています。コジモ1世がここに官庁を集約したのは国家行政の効率的な運営のために中央集権化を図る事と、国政に携わる有力者を一ヶ所に集めて厳重な監視下に置く事が目的でした。

コジモ1世はさらに秘密警察の監視網を網の目の様に張り巡らせ、メディチ家に敵対する者は容赦なく逮捕、投獄し、市内にはおよそ3万からなる傭兵主力の「常備軍」を常時駐留させる事で、反体制派の動きを封じ、また国内外のいかなる変事にも対応出来る様「臨戦態勢」で待機させました。

こうして国内を固めたコジモ1世は、1554年にフィレンツェの南にあって長年の宿敵であったシエナ共和国に侵攻し、長い戦いの末3年後の1557年にこれを征服します。これによって約400年続いたシエナ共和国は滅亡し、以後トスカーナ大公国の一部となりました。

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上が現在のシエナ市街(人口は約5万3千)今は世界遺産の静かな田舎町です。

コジモ1世はシエナを手に入れると、1562年にフィレンツェの歴史で初めてとなる「海軍」を創設しました。これは対オスマン帝国への防衛を名目として造られた16隻のガレー軍船からなるもので、後にこの艦隊は1571年のオスマン帝国艦隊と西欧連合艦隊との海上決戦となる有名な「レパントの海戦」にも参加して戦功を挙げる事になります。

こうしたコジモ1世のしたたかな勢力拡大政策に、これまで彼を支援していた神聖ローマ皇帝カール5世と、その息子でスペイン王のフェリペ2世は警戒心を募らせ、何度かその動きを封じ込めるために軍を動員してけん制していますが、コジモ1世は皇帝たちの弱点であるフランスやプロテスタント勢力、ローマ教皇などの力関係をたくみに利用して独立を維持していきました。

1569年、時の教皇ピウス5世はスペイン王フェリペ2世らを説得し、コジモ1世に「トスカーナ大公」の位を授ける事を了承させ、ここに彼は改めてトスカーナ大公コジモ1世となり、同時にフィレンツェ公国は併合したシエナを合わせ、人口70万の「トスカーナ大公国」として生まれ変わる事になりました。(この大公の位はイタリアではそれまで前例が無く、皇帝カール5世やフェリペ2世も長い間それを認めませんでしたが、カール5世の死後11年を経てようやく認められる様になったそうです。)

こうしてメディチ家はコジモ1世のもとで再びフィレンツェに栄光の時代を再現していく事になります。

次回に続きます。
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