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トスカーナ大公国の成立 ・ 栄光の再来 2

みなさんこんにちは。

初代トスカーナ大公となったコジモ1世ですが、彼は政治、外交、軍事だけでなく、もちろんメディチ家の当主として芸術や文化を手厚く保護しました。彼の命によって多くの教会、修道院、聖堂が建てられ、または既存のそれらに対して拡充がなされ、その内部は多くの絵画や彫刻で飾り立てられました。しかし徹底したリアリスト(現実主義者)であったコジモ1世は芸術や文化を楽しむために保護したのではなく、彼自身の宮廷とメディチ家の栄光を内外にアピールするための「道具」として利用したという方が正しいかもしれません。

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大公コジモ1世は歴代のメディチ家当主のみならず、過去に存在したイタリアの君主の中でも最も自己宣伝の多かった人物で、数え切れないほど多くの自分の肖像画を描かせ、各国の君主や有力者、臣下の者たちに配り、徹底的にこれらを政治利用しています。

彼の治世ルネサンスの3大巨匠の内の2人、レオナルド・ダ・ヴィンチとラファエロはすでにこの世に無く、唯一ミケランジェロだけが存命でしたが(ミケランジェロは1564年に88歳という長寿で亡くなります。)彼はメディチ家支配のフィレンツェを離れて晩年はローマで活動したため、コジモ1世はフィレンツェ在住のあらゆる芸術家を集めてこれらに当たらせました。

その中で最も大公の信任厚い芸術家だったのがジョルジュ・ヴァザーリ(1511~1574)です。

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上がジョルジュ・ヴァザーリ。彼は前回お話したウフィツイ宮殿の造営をはじめ、それ以外に大公が命じたほとんどの芸術、文化政策に携わった中心人物でした。また彼はルネサンス期の芸術家たち133人の活躍と生涯を一冊の本にまとめ、「芸術家列伝」として出版しています。

コジモ1世はフィレンツェをメディチ家の宮廷にふさわしい街にするため大規模な都市改造事業を行います。先のウフィツイ宮殿をはじめ、政治を行うヴェッキオ宮殿、病気がちの公妃エレオノーラのために後年移り住んだピッティ宮殿の増築、さらにそのピッティ宮殿から政庁のあるヴェッキオ宮殿までのおよそ1キロ余りをアルノ川にかけられたヴェッキオ橋を通して一つの通路で結び、大公以下メディチ家一族が護衛無しに2つの宮殿を往復出来る「空中回廊」を設けました。(これもヴァザーリの手によって造られ、「ヴァザーリの回廊」として現在も残っています。)

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上の1枚目がピッティ宮殿で2枚目がヴァザーリの回廊です。宮殿の後ろからアルノ川にかかるヴェッキオ橋を通って一つの通路で結ばれているのがお分かりいただけると思います。(しかし画像をご覧になれば分かると思うのですが、これ橋の橋脚にかなり負担がかかると思うのですが構造上大丈夫なんでしょうか?いずれにしても建造から450年以上経った今日まで持っているのは凄いですね。)3枚目は現在の回廊内部でこれも絵画美術館となっています。

コジモ1世は自らの宮廷を飾り立てるばかりでなく、市民生活の向上のため多くの公共事業を手がけています。市民の生活に欠かせない食材を大量に売り買い出来る市場(マーケット)を各所に設け、街の中央を流れるアルノ川にいくつもの橋を造って交通の不便を軽減し、流通と商売の活性化を図りました。またシエナを併合して国土も人口も倍増した事から、それまでのフィレンツェ中心の経済政策を改め、トスカーナ全体の利益を考えた経済政策を打ち出します。具体的にはトスカーナ全土の農業の振興、鉱物資源の採掘、毛織物産業の増産などで、これによって都市人口は停滞しましたが、代わりに農村部の人口が増えていきました。

大公のこうした政策によって、それまで商人の街であったフィレンツェはメディチ家の栄華を体現した宮廷都市へと変貌をとげ、今日見られるフィレンツェの姿が形作られる事になったのです。

コジモ1世の都市改造事業は、後継者である息子フランチェスコと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妹ジョバンナ・ダウストリアとの結婚に合わせて急ピッチで進められ、彼らの婚礼は1565年12月にメディチ家の威信をかけて盛大に執り行われました。なぜならこのハプスブルク家とメディチ家の婚礼は、元は金貸しから成り上がった銀行家出身のメディチ家が、正式にヨーロッパの王侯君主の仲間入りを果たした事を内外に知らしめる絶好の宣伝であったからです。

しかし対外的には栄光に包まれていた大公コジモ1世の晩年は不幸の連続でした。彼は前回お話した公妃エレオノーラとの間に11人の子を儲けますが、その大半が10代なかばで夭折か不幸な死をとげ。成人したのは長男フランチェスコと四男フェルディナンドだけでした。(この2人は後にそれぞれ大公位を継承します。)

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中でも最も大公を打ちのめしたのは上に載せた最愛の公妃エレオノーラの死でした。年を経るごとに病弱になっていった彼女は1562年に静養先のピサで43歳で亡くなりますが、政略結婚ではあったものの珍しく相思相愛の夫婦だったため、この時の大公の悲しみは計り知れず、この事が大変な精神的打撃となってしまいます。

1564年大公は長男フランチェスコを摂政に任じ、政務の大半を任せますが、これによって余暇の多くなった大公はそれまで謹厳実直で公務に明け暮れる毎日だった生活から一変し、乱れた女性関係を持つ様になってしまいます。2人の女性と関係を持ち、それぞれに子を産ませると、相続の混乱からそれを諌めた家臣を激情に駆られて自ら斬り殺してしまうなど、常軌を逸した行動に走る様になります。

さらに悲惨だったのは1567年、48歳の時に卒中で倒れ、意識は回復したものの半身不随になってしまい、話す事も不自由になって心身の衰弱と精神的退行が進んでしまった事でした。(側近の記録では子供の様にわめいたり泣き叫び、かと思えば大笑いしたりふさぎ込んだりと、とても手の付けられない状態だったそうです。)

幸いな事に大公国の政治行政は、壮健であった頃の大公が築き上げた統治システムがうまく機能しており、メディチ家の他の一族や家臣たちはこれを基に国家運営を行えたので、すでに引退同然の大公がその様な状態でも支障は無かった様ですが、かつてあれほど人々を恐れさせ、また畏敬の対象であった名君の変わり果てた姿に、周囲の人々はさぞ驚き、また哀れんだ事でしょう。

1574年4月、晩年の7年余りを除き、およそ30年に亘ってフィレンツェに君臨した功罪多き初代トスカーナ大公コジモ1世は55歳でこの世を去りました。葬儀は彼が「父」と慕った神聖ローマ皇帝カール5世の葬儀に倣い、メディチ家中興の祖としてメディチ家の菩提寺であるサン・ロレンツォ聖堂で荘厳に執り行われたそうです。

次回に続きます。
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