黄金の国の少年たち ・ 変わり者大公と天正少年使節

みなさんこんにちは。

1574年、トスカーナ大公国を築いた初代大公コジモ1世が亡くなると、次の大公には長男のフランチェスコ1世が即位しました。しかし残念ながら彼は父コジモ1世とは全く対照的で、国の統治者としては明らかに不向きな人物でした。

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上が第2代トスカーナ大公フランチェスコ・デ・メディチ1世(1541~1587)彼は即位当時33歳の立派な大人で、父コジモ1世から摂政に任じられて政務の大半を委譲され、10年のキャリアがありましたが、陰気で気まぐれな上に自己中心的で責任感に乏しく、さらにそもそも政治に関心がありませんでした。父コジモ1世は後継者である息子の多すぎる欠点を心配し、彼に早くから摂政職を任せたのもこれらの欠点を少しでも解消し、次期大公としてふさわしい人物として国政を任せられる様にする事を願っての事でしたが、残念ながら全く効果が無かった様です。

そのためフランチェスコ1世がトスカーナ大公として在位した13年間に彼が大公として果たした政治的、外交的成果はほとんど無く、内政も外交も父コジモ1世が生前作り上げていた官僚機構(ビューロクラート)によってつつがなく運営されていました。

フランチェスコ1世は名門ハプスブルク家からジョバンナ・ダウストリアを大公妃として迎えていましたが、やがて愛人ビアンカ・カペッロと不倫に走り、1579年にジョバンナ大公妃が亡くなるとビアンカと再婚して彼女を大公妃にするなど勝手気ままに振舞い、さらに当時流行していた錬金術(「れんきんじゅつ」これは鉛から金を作り出そうという浅ましくも幼稚な発想から当時流行し、盛んに「実験」と「研究」が行なわれていました。もちろんそんな事が出来ようはずも無くやがて飽きられますが、意外にもこの時の「実験」などが、やがて近代化学の基礎を成す事になり、産業革命と科学文明の発展につながって行きます。)に熱中し、いかがわしい「研究」に没頭する様になります。

そんな「変わり者」の大公と贅沢好きな大公妃ビアンカに対し、周囲の者や市民たちも呆れ果て、そして1587年、大公夫妻は別荘に滞在中マラリアに感染して2人とも急死してしまいました。(これは当時市民の間で「大公は道楽の錬金術で作った「不老長寿の薬」を夫婦で飲んで死んでしまったのだ。」などという噂が流れたそうです。)

さて良い所が無かった変わり者大公フランチェスコ1世ですが、彼は意外にも日本と接点があります。それは当時戦国時代後期であったわが国において、すでに日本に来航していたポルトガルの宣教師らの発案で、九州のキリシタン大名たちがヨーロッパに派遣した「天正遣欧少年使節」の4人の少年たちが、ローマに向かう途中でトスカーナに立ち寄った際に、彼らをピサの宮廷に招いて舞踏会を催し、フィレンツェでヴェッキオ宮殿に宿泊させるなど、少年たちを手厚くもてなしているのです。

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この天正少年使節について詳しくお知りになりたい方は、上の若桑みどりさんの本が良書です。上・下巻両巻500ページを越える大作で、使節団について書かれた日本で最も詳細な本です。

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上が歴史の教科書などで良く知られた「天正少年使節」を描いた絵です。(右上の王冠を手にしているのがリーダーの伊東マンショ、左上が中浦ジュリアン、右下が千々石ミゲル、左下が原マルチノです。中央の黒い服装の人物は同行した通訳の宣教師だそうです。)記録では彼らは1582年2月に長崎を出発し、3年後の1585年3月にトスカーナのピサに入っています。出発当時12,3歳だったそうですからトスカーナを訪れた時は15,6歳になっていますね。

この天正少年使節の4人の少年たちは、後の幕末戊辰戦争の時の「会津白虎隊」の少年たちと並んで、歴史好きな女性の方々や漫画家さんなどの間でとても人気がある様ですね。現代のアイドルの少年たちが舞台や芝居で演じている事も多い様です。検索すると漫画やイラストなどではさらさらの黒髪を結った「美貌の少年」というイメージで描かれていますが、実際は上の絵を見ると坊主頭だった様です。しかし無邪気な笑みを浮かべて慣れないぶかぶかの派手な洋服を着た彼らの姿は可愛らしいですね。

しかしこの無邪気な少年たちが、知られている限りでは日本史上初めてヨーロッパを訪れた日本人なのですから驚きです。ただ彼らも普通の少年ではなく全員が九州の名門の武家の出身であり、選りすぐりの優秀な少年たちで、同行した宣教師らによって言葉はもちろん西洋のマナーや習慣を教育された「小さな紳士」たちでした。記録ではこの時最年長のリーダーであった伊東マンショがピサの宮廷での舞踏会で、大公妃ビアンカとダンスまでしています。何度も間違え、普通なら大笑いされる様な場面だったそうですが、一生懸命役目を務めようとする彼のひたむきさに大公以下宮廷の人々はとても感銘を受けたそうです。

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この少年使節は目的地であるローマに向かう途上、フィレンツェやピサだけでなく上の図の様に数多くの都市を訪問していますが、使節のニュースはグーテンベルクの活版印刷の普及により大量に刷られた印刷物で盛んに宣伝され、当時のヨーロッパの人々は遠い地の果ての「黄金の国」ジパングからやって来た彼らに興味深々でした。そのため少年たちはどこに行っても行く先々で疲れるくらいに大歓迎され、彼らは嬉しい反面で、まだ少年に過ぎない自分たちがなぜこれほど歓迎されるのか訳が分からなかった様です。

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フィレンツェを後にした少年使節はその2週間後に最終目的地ローマに到着し、バチカンで時の教皇グレゴリウス13世(1502~1585)の謁見を賜ります。(上がその時の様子を描いた絵です。)教皇は大喜びで彼らを迎え、長い旅路の労をねぎらいました。すでに高齢であった教皇はこの2週間余り後に亡くなりますが、最後まで少年たちの事を心配していたそうです。

彼らはその後帰国の途に着き、さらに5年の月日を経て1590年に日本に帰国します。出発時まだ少年であった彼らも20歳前後の立派な若者に成長していましたが、その後の彼らには過酷な運命が待ち受けていました。天下はすでに豊臣秀吉によって統一されており、秀吉の発したバテレン追放令や徳川幕府によるキリシタン弾圧によって日本に彼らの居場所はもう無かったのです。そして4人の若者は伊東マンショが病で早世し、千々石ミゲルが現実に絶望して棄教、中浦ジュリアンが処刑により殉教、原マルチノがマカオに追放と、それぞれ全く違った運命をたどる事になり、歴史の中に消えていきました。

彼らの最後は悲しく哀れなものでしたが、その彼らの人生において、使節として派遣されたこのヨーロッパ訪問の長い旅の時代がまぎれもなく最も楽しい幸せな至福の時だったでしょう。個人的には帰国などせず、あのままヨーロッパに留まって聖職者になっていれば幸福な人生を送れたのではないかと悔やまれてなりません。そしてその彼らの人生の最も幸福な時代に、ほんのわずかな間ですがメディチ家とフィレンツェも関わっているのです。

次回に続きます。
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