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最後の名君 ・ 最後の繁栄

みなさんこんにちは。

変わり者大公フランチェスコ1世の急死によって、トスカーナ大公国では次の大公を急ぎ即位させる必要がありましたが、前大公の子は娘ばかりであり、初代大公コジモ1世の子らはほとんど若くして早世したため、メディチ家内には、その長男である前大公フランチェスコ1世以外で大公位を継承出来る成人男子は、その弟で枢機卿であった五男のフェルディナンドだけでした。

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上が枢機卿時代のフェルディナンド。そのため彼は時の教皇シクストゥス5世に願い出て枢機卿位を返上し、1588年にトスカーナ大公として正式に即位しました。

FERDIN~1

そしてこれが第3代トスカーナ大公となったフェルディナンド・デ・メディチ1世です。(1549~1609)彼は15歳でローマ教皇庁に入り、過去にレオ10世、クレメンス7世と続き、すでにメディチ家の伝統になっていた枢機卿から未来の教皇へという道を歩んでいましたが、メディチ大公家の血脈を絶やさないために大公位を継ぎました。

彼は内向的で政治に無関心だった兄フランチェスコ1世とは全く正反対の外交的で積極的な人間味と温情あふれる性格で、大柄で堂々たる体格から市民にも人気を博し、そして何より明敏な政治、外交感覚を備え、また有能な実務家として行政面でも能力を発揮し、父コジモ1世の優れた部分を全て受け継いだ最も統治者にふさわしい人物でした。

新大公フェルディナンド1世は、兄の時代に低迷したトスカーナの国威を挙げるため様々な積極政策を次々と打ち出します。そのための第一段階として、彼はまず国内経済の建て直しから取り掛かります。当時トスカーナは彼の父コジモ1世の産業振興政策の成功の後、フランチェスコ1世の無為無策のために再び経済が悪化し、人民の多くが貧しさにあえいでいました。この国家経済と国内産業の建て直しを進め、富を増やして国庫収入の増大と国内経済の安定を図る事が急務でした。(つまり何をするにもまずは「金」が無くてはならなかったという事でしょう。)

彼はトスカーナの古くからの重要産業である毛織物産業の拡大とともに、新規産業として絹織物産業を育成し、さらに農地開墾と干拓事業で新たに広大な農地を作って農産物の増産に努めました。これらの地には裕福な貴族や商人たちがこぞって進出し、大農園を経営する「大地主」となり、貧しい人々を「小作人」として雇って次々と郊外に別荘や屋敷を建てていきました。(他にも塩田、鉄鉱の開発も手堅く進めています。)

フェルディナンド1世はこうして作った国内の産物を売りさばくため、自ら各国に出かけて外遊先でトップセールスを展開します。(そのあまりの熱心さに「商人大公」などと云われたそうです。)トスカーナ国内の貴族や商人たちもそれに倣って各地に販路を広げ、国際貿易が盛んに行われていきました。この時の一連の外遊で経済産業と流通の活性化を痛感した彼は、大量の商品のやり取りを自由に出来る様にそれまでのピサに代わり、新たにリヴォルノを自由貿易港として開放し、あらゆる国々の商人に対して25年間の関税免除を実行しました。

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上が現在のリヴォルノ。人口は14万8千ほどで、今も当時の面影を偲ばせる活気あふれる港町です。

これによってリヴォルノにはヨーロッパ各地はおろか、オスマン帝国支配下の地中海沿岸からも多くの商人が集まり、これらの国々の領事館が置かれて国際貿易港として発展しました。こうした大公の一連の経済政策によってトスカーナの経済は大きく向上し、国庫収入は大きく増加しました。記録によればメディチ家がトスカーナ大公となる1569年頃までのフィレンツェの国庫収入は30万フィオリーノ前後(現在の価値でおよそ360億円)であったのに対し、フェルディナンド1世が亡くなる1609年時点のトスカーナの国庫収入は140万フィオリーノ(同じくおよそ1680億円)という驚異的な数字であったそうです。

外交面では、父の代から続くスペイン・ハプスブルク家一辺倒の政策を転換します。特に1588年にスペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に敗北すると、それに乗じてフランス王家に急接近し、1589年に自らの妃としてフランス王アンリ2世の孫娘に当たるクリスティーヌ・ド・ロレーヌ(1565~1637)を迎え、さらに1600年には姪に当たるマリー・ド・メディシスをフランス王妃として嫁がせました。これによってフランスの後ろ盾を得たフェルディナンド1世はそれまで頭が上がらなかったスペインに対して、トスカーナの外交的自立を得る事に成功します。

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上がフランス王妃マリ-・ド・メディシス(1575~1642)彼女はフランス王アンリ4世の妃としてなんと60万フィオリーノ(約720億円)という前代未聞の莫大な持参金付きでフランス王家に嫁ぎました。しかしこれは完全な政略結婚で、当時フランスは財政難にあえいでおり、アンリ4世にとってはこの持参金が目当てでしかありませんでした。そのため嫁いだフランスで彼女は寂しさから贅沢と浪費に走り、さらに生涯に50人もの愛人と関係を持ち、恋多くもスキャンダラスな生活を送る反面、金と権力の道具に使われるという哀れな生涯をたどった女性でした。

フェルディナンド1世はこうした優れた君主であると同時に、派手好きな浪費家でもあり、メディチ家の伝統である芸術と文化のパトロンとして歴代の当主同様惜しみなく金を注ぎ込みました。大公がそれだけの金をどうやって得ていたかと疑問に思われるでしょうが、共和制だった頃と違ってこの時代のメディチ家はフィレンツェを中心とするトスカーナ大公国の絶対君主として国家と一体となっており、メディチ家の財産はそれすなわち国庫そのもので、国家の全ての金を自由に使えた事が大きな理由でしょう。

そしてフェルディナンド1世はそのあり余る金で自分とメディチ家の栄光と栄華をあらゆる形で具現化し、金と宝石、光り輝く様々なモニュメントでメディチ王朝を好きなだけ飾り立てていく事が出来たのです。その詳細については、これまでの当主がして来た事の拡大と踏襲に尽きるので省きますが、彼の治世がメディチ家とフィレンツェの栄光と繁栄の最後の輝きを放った時代でした。

しかし最後の名君であった彼の死後、残念ながらメディチ家には傑出した人物がついに現れず、また大航海時代の到来で世界の中心はイタリア半島のある地中海から、広大な領土と人口を持つ西ヨーロッパ諸国へと移り、もはや都市国家レベルで覇を競う時代ではなくなっていました。こうした大きな世界の流れの中で、メディチ家とフィレンツェは緩やかに衰退と忘却の道を歩んでいく事になるのです。

次回に続きます。
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