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帝国の創成期 ・ オットー1世とザクセン王朝 1

みなさんこんにちは。

今回からヨーロッパ中央部、現在のドイツを中心として、中世から近世までおよそ800年以上に亘って存在した史上まれに見るユニークで不思議な帝国である 「神聖ローマ帝国」 と、スイス辺境の貧しい一領主から身を興し、途中からこの巨大な国家の帝位を独占して「日の沈まぬ世界帝国」を築き、「神に選ばれた一族」と称されて600年以上の長い繁栄を誇ったヨーロッパ最大の名門王朝である「ハプスブルク家」についてお話したいと思います。

紀元5世紀の古代ローマ帝国滅亡後、長い混乱の500年を経て、中世の半ばから近世にかけてのヨーロッパの歴史を語る上で、この神聖ローマ帝国無しでは語れず、また同時にこの帝国の歴史を語るには、ハプスブルク家無しでは成り立ちません。つまりこの国家の成立とその後に出現するハプスブルク家の歴史は、それすなわちそのままそれ以後のヨーロッパの歴史そのものといっても過言ではないでしょう。

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(この神聖ローマ帝国について詳しくお知りになりたい方は、上の菊池良生さんの本が良書です。どちらも氏の著作ですが、この帝国は非常にユニークな国家で、理解に時間がかかると思うので、はじめに文庫の方を一読し、図説と照らし合わせて読み進められると良いと思います。)

最初にこの神聖ローマ帝国の成り立ちと、事実上の初代皇帝であるオットー大帝が即位するまでについて話を始めて行きたいと思います。

時は9世紀、現在のドイツ、フランス、北イタリアにはフランク族のカール大帝(742~814)が紀元800年に建国した強大なカロリング・フランク王国がありましたが、カール大帝の死後、この国家は息子たちによって3分割され、(現在のフランスを西フランク王国、同じくドイツを東フランク王国、北イタリアを中部フランク王国と称する)それぞれの国はカール大帝の血を引くカロリング家の子孫たちによって継承されていきます。

しかしそのカロリング家も家系の断絶が相次ぎ、最終的に3王国全てで家系は絶えてしまいました。その中で現在のドイツに当たる東フランク王国の東カロリング家が断絶すると、東フランクの貴族たちはゲルマン人の古来からの風習にのっとって自分たちで国王を選出し、フランケン公コンラート1世を東フランク王として即位させました。

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上が東フランク王として選出されたコンラート1世です。(881~918)しかし彼は国王になっても国を自分の思いのまま支配出来たわけではありませんでした。なぜならそれまでフランク族のカロリング家の強大な力によって支配されていたゲルマンの貴族たちが、カロリング家の断絶によってその支配から開放され、それぞれの自領で自立し、その中でも最も強力であり、コンラート1世の宿敵であったザクセン公のハインリッヒ1世が容易に彼に従おうとせず、それどころか王国から独立する気配すらあったからです。

そのため彼はザクセン家を支配する事を諦め、せめて彼らの王国からの離脱を阻止するために、自分の後継者として宿敵であったハインリッヒ1世を指名して亡くなり、彼の意を受けた貴族たちもこれを了承してハインリッヒ1世を新たな東フランク王に選出しました。(これによりフランケン朝はコンラート1世1代のみで終わります。)

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上がザクセン公ハインリッヒ1世です。(876~936)さて、かつての宿敵から思わぬ形で王位を継いだハインリッヒ1世ですが、彼が前王や貴族たちから新たな王に選ばれた理由にその軍事的な強さにあります。当時東フランク王国は周辺の異民族の侵入に悩まされており、中でも現在のハンガリーからはマジャール人が東から迫り、西にはノルマン人ヴァイキングが略奪を繰り返していました。

ハインリッヒ1世は強力なザクセン軍を率いてこれらと戦い、何度も撃退して貴族たちから国王としての信望を得ていきます。彼はこの機を逃さず自らの王権の強化に乗り出し、後継者である息子オットーをはじめ一族の者を国の重職に任命して、かつてのカロリング家の様にザクセン家による王朝世襲を狙います。

しかしこの彼のたくらみは貴族たちによって見事に覆されてしまいます。彼は貴族たちを甘く考えていました。というよりも王と貴族たちの間に考えの食い違いがあったと言うべきでしょう。つまりハインリッヒ1世は東フランク王国すなわちドイツ王国の全てを支配する唯一絶対の存在となろうとしたのに対し、諸侯にとって 「国王」 などはあくまで自分たちの利益を守るために選んだ単なる 「代表」 に過ぎなかったからです。

この食い違いはハインリッヒ1世の死後、王位を継いだオットー1世の時代に一気に表面化します。936年オットー1世は父の後を継いで東フランク王となり、諸侯もこの継承に同意しますが、前王ハインリッヒ1世が諸侯を 「わが盟友たち」 と表して対等に扱ったのに対し、オットー1世はあくまで諸侯の上に立ち、諸侯を自らの「臣下」として扱ったからです。ほどなくしてこれに不満を持つ貴族たち (フランケン公、ロートリンゲン公、バイエルン公など) が現れ、938年オットーの腹違いの弟ハインリッヒを頭に各地で反乱が発生します。

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上が東フランク王国ザクセン朝2代国王オットー1世です。(912~973)彼はこの反乱で危機に陥りますが、幸運にもこれら反乱勢力と対立していたシュワーベン公ヘルマン1世が彼の味方に付いて形成は逆転し、反乱は鎮圧されて反乱勢力は壊滅しました。

反乱の首謀者である弟ハインリッヒは母の懇願で一度は許されますが、941年に再び兄オットーの暗殺を企て、修道院に幽閉されてしまいます。普通ならこれで生涯を終える所ですが、この人物はなかなか強運で、6年の幽閉の後、947年再び母の懇願でオットーの許しを得、王としての兄の器の大きさを知ると、今度は進んで兄王の右腕となって活躍しました。兄オットー1世も弟の働きに報い、後に彼をバイエルン公に任じています。


オットー1世はそれ以外にも、味方に付いて彼を助けてくれた最大の功労者であるシュワーベン公ヘルマンに対して、彼の幼い娘イーダと自分の息子でまだ10歳に満たないロイドルフを婚約させる事で、将来の王妃の地位を約束してその労に報います。しかしこれは将来成長したロイドルフにシュワーベン公領を引き継がせる事を狙ったオットー1世の政略であり、ヘルマンにもそれは分かっていましたが、彼には娘しかおらず、女性が後継者になれないゲルマンの慣習ではヘルマンの血筋が絶えてしまうため、彼は他の貴族よりもザクセン王家と一つになる事でそれを果たそうとオットーの申し出を受け入れました。

こうしてオットー1世は反乱に加担して没収した他の公領(フランケン公、ロートリンゲン公)もザクセン家の一族に与え、全ての公領を手中に収める事に成功します。公領を全て支配下に収める事で、再度の反乱を抑えようとしたのです。

しかしこの彼の政略は、数年後に思わぬ形で再び覆され、やがて彼はその政略を見直す必要に迫られる事になります。

次回に続きます。
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