帝国の創成期 ・ オットー1世とザクセン王朝 2

みなさんこんにちは。

反対する貴族たちの反乱を一掃し、取り上げた領地を次々にザクセン家の近親者に与えて、東フランク王として国内の足固めに成功したかに見えたオットー1世でしたが、この後意外な人物が彼に歯向かう事になります。その人物とは誰あろう未来の王位継承者である長男ロイドルフです。

オットー1世は最初はロイドルフ王子を自分のそばに置いて補佐をさせるとともに、将来の王としてのいわゆる「帝王学」を身に付けさせるつもりでいた様ですが、ロイドルフの方は父の言いなりになる事を嫌い、父から与えられ、妻イーダの実家から引き継いだシュワーベン公領において独自の統治を行う様になります。(この親子、あまり仲は良くなかった様で、後から述べる様にやがて悲惨な結末を迎える事になってしまいます。)

そんな最中の950年、オットー1世の元に、北イタリア王国の王妃アーデルハイト(932~999)から、「王位を狙う臣下のベレンガリオ伯に夫を毒殺され、(王位を継がせるために)その息子アダルベルトとの無理な結婚を迫られているので助けて欲しい。」との知らせが入りました。

これはオットーにとって、イタリアに兵を進めて領土を広げる絶好の機会でした。そこでその準備をしている最中に、かのロイドルフ王子が父王の許可を待たず、手勢を率いてアーデルハイトの救出に出発してしまいます。当然オットー1世は激怒し、弟ハインリッヒや娘婿コンラートらを先遣隊としてその後を追わせ、自らも数万の大軍を率いて北イタリアに南下しました。

オットー率いる東フランクの大軍はベレンガリオ伯を破り、アーデルハイトは救出され、951年彼女はオットー1世の後妻となりますが、オットーは勝手な行動を取ったロイドルフを許さず、彼の手柄は叔父であるハインリッヒらのものとされ、彼らは充分な恩賞を貰いましたが、面白くないのは当然ロイドルフ自身です。

やがて後妻アーデルハイトに男子が生まれ、父がその子を後継者にするそぶりを見せると、953年ロイドルフは、父王に対する反対勢力を糾合してついに父に反旗を翻しました。この反乱は即位当時のオットーが経験した弟ハインリッヒの反乱に匹敵する大規模なもので、今度はオットーはおろか、かつてその反乱で兄を窮地に陥れ、今は忠実に兄に従うハインリッヒも兄とともに危機に陥りましたが、(ハインリッヒもこれで兄オットーの気持ちが理解出来た事でしょうね。)この時幸運にもハンガリーのマジャール人が東フランク領に侵入し、ロイドルフの反乱に加担した貴族たちを背後から脅かしました。

オットー1世とハインリッヒ公の兄弟は実に強運の持ち主であるだけでなく、したたかな戦略家でもありました。彼らはこの機を逃さず、ロイドルフに味方した者たちに次の様な噂を振りまいて混乱と離反を促します。

「異民族の侵入はロイドルフが引き入れたものであり、彼が王になれば貴族たちの領地を異民族に分け与えるつもりだ。」


この作戦は大成功を収め、貴族たちは次々にロイドルフの下を離れてオットー1世の軍門に下り、味方を失ったロイドルフ王子は954年レーゲンスブルクで降伏して反乱は終息しました。

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上が現在のレーゲンスブルクです。(人口13万ほど) 南ドイツ・バイエルン東部の静かな街です。

この戦いで反乱の首謀者ロイドルフ王子はシュワーベン公位の剥奪とその全ての領地を没収され、「王の子」 であるという事に免じて命だけは助けられましたが、事実上の幽閉に近い蟄居処分となり、3年後の957年にロイドルフは蟄居先で27歳の若さで失意の内に亡くなりました。

2度に亘る親族の反乱に、身内といえども信用出来ない事を嫌というほど思い知らされたオットー1世は、以後ザクセン家の親族による統治政策を改め、代わりにかつてカロリング家のカール大帝が張り巡らした教会機構のネットワークに着目し、キリスト教会の高位聖職者に統治を任せる様にしました。

彼がなぜ聖職者に各地の統治を任せたのかというと、その理由は2つあります。1つ目は聖職者は独身が原則であるから貴族たちの様に世襲が出来ず、自由に人選してすげ替える事が出来る事と、貴族たちが連合して反乱に与しないよう間に教会領を挟む事で、これらに楔を打つ事が出来るなどが挙げられます。

オットー1世はまず末弟でケルン大司教であったブルーノを953年にロートリンゲン公に任じ、(たまたま彼は親族でしたが・・・。)他にも同様に教会領に特権を与えていきました。

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上が兄オットー1世からロートリンゲン公に任命された末弟のケルン大司教ブルーノです。(925~965)この肖像画はかなりの老人に描かれていますが、実際の彼が亡くなったのはまだ40歳の若さでした。

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そして上がケルンの街並みとケルンが誇る「大聖堂」です。この街は人口およそ102万人のドイツ有数の大都市で、大聖堂の高さは157メートルもあり、世界最高の高さのゴシック建築の大聖堂として世界遺産となっています。

このオットーの「帝国教会政策」は一定の功を奏し、後に彼が築く事になる「神聖ローマ帝国」の皇帝を選ぶ「選帝侯」の中に、本来皇帝の選挙権はおろか、そもそも政治権力とは無縁の存在であるはずの聖職者である「OO大司教」がいくつか含まれているのはこの時の事情が大きく影響しています。

しかしこの彼の政策は、皇帝や国王の都合によって聖職者の選任が行われてしまう事から、聖職者の最高位であり、これに反対するローマ教皇との間でこれを巡る争い(叙任権闘争)に発展する原因になりました。

ともあれこうして身内の敵を一掃したオットー1世でしたが、彼にはもう一つの厄介な敵がいました。先のロイドルフの反乱で東フランク領に侵入したハンガリーのマジャール人勢力がそのままドイツ南部に留まっており、アウクスブルクをはじめとする周辺の都市を攻撃していたからです。(このマジャール人というのは、はるか東方のロシアから移住して来たアジア系遊牧騎馬民族であり、当時まだキリスト教に改宗しておらず、異教の神を信仰していました。)

オットーはこの侵入者たちを国内から排除するため、およそ8千の軍勢を率いて出陣し、ドナウ川の支流レヒ河畔でマジャール軍との戦闘が始まりました。(レヒフェルトの戦い)マジャール軍はおよそ1万7千で兵力は倍以上の開きがあり、オットー1世はまたも危機に陥りますが、幸運にもかつてロイドルフの反乱に加わって謹慎の身であった娘婿のコンラート公が救援に駆けつけ、東フランク軍は勢いを盛り返してマジャール軍を見事に撃退しました。

この戦いでオットーを救ったコンラート公は戦死しましたが、以後マジャール人による侵入は無くなり、おかげでオットー1世は、「異民族からキリスト教世界を守った王」として威信が高まり、後の帝国建設に大きく前進する事になりました。

次回に続きます。
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