神聖ローマ帝国の成立 ・ 王国から帝国へ

みなさんこんにちは。

レヒフェルトの戦いに勝利し、国内に侵入したマジャール人勢力を追い払ったオットー1世はその後着々と国内の安定に努めていましたが、そんな最中の961年、かつて北イタリア王位を狙ってオットーの軍勢に敗れ、その後許されて北イタリアを代理統治していたベレンガリオ伯が再び野心をむき出し、今度は南のローマ教皇領を脅かす様になっていました。

ベレンガリオ伯は、北のオットー1世は強大すぎて勝てないため、その矛先を武力の弱い教皇領に向けたのです。これには時のローマ教皇ヨハネス12世はたまらずオットー1世に救援を求め、彼はその求めに応じて大軍とともに南下してベレンガリオ伯を追放し、ローマに入城しました。

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上が教皇ヨハネス12世です。(937~964)彼はカール大帝の子孫に当たり、なんと18歳の若さで教皇になったのですが、それは彼の個人的な力量ではなく、名門カロリング家の出身という家柄の良さによるものでした。

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上はオットー1世と会見する教皇ヨハネス12世。この時オットー1世が教皇を助けたのは、もちろん教皇に対する友情や信仰心からではありません。彼はカール大帝の様に、「ローマ皇帝」として戴冠する事を望んでいたので、ベレンガリオ伯追討の見返りとして教皇にそれを要求し、教皇もそれを了承していました。

しかし、この時オットーは自らの皇帝即位に当たってカール大帝の失敗の轍を踏まないよう周到に計画していました。彼は新たに教皇領を寄進しましたが、同時に

「教皇は、皇帝に忠誠を尽くさなければ教皇職には就けない。」

という条件を定めたのです。オットーは教皇から帝冠を受けましたが、それは教皇という個人からではなく、神から帝冠を授かるという形を現すためのものであり、彼にとって教皇の存在はそれを体現するための「道具」に過ぎず、皇帝即位はオットーの主導によって行われました。


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上がこの時オットー大帝が被った神聖ローマ帝国皇帝の帝冠で、後の歴代皇帝によって受け継がれていきました。黄金の冠にダイヤモンド、ルビー、サファイヤ、エメラルドなどの宝石がはめこまれ、その周りにたくさんの真珠がちりばめられています。(この時代はまだ宝石の正確なカット技術が無いので、原石を丸く磨いてそのままはめこんでいます。また真珠なども当然まだ養殖技術は無いですから、同じ大きさの天然の真珠をこれだけそろえるには大変な手間がかかったでしょうね。)

962年2月、オットー1世は教皇ヨハネス12世からローマ皇帝の帝冠を受け、この時からオットー大帝と称される様になります。また同時に歴史上の位置付けでは、彼が皇帝に即位したこの時をもって「神聖ローマ帝国」の成立とみなしています。

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上は皇帝即位後のオットー大帝。しかし、この時誤解してはならないのは、オットー大帝が即位した最初から、この国家が神聖ローマ帝国と名乗っていたわけではないという事です。それにオットー大帝は一応ローマ皇帝として即位しましたが、彼の支配するのはドイツ、イタリアだけであり、フランス、スペインは手付かずのままでした。これではさすがに「ローマ皇帝」と呼ぶには領土が小さすぎると言う事から、彼は「皇帝アウグストゥス」と名乗っただけで、この時点における帝国の正式名称は定めていませんでした。この大げさな名前が公式に登場するのはもっと数百年を経た後の事であり、この時点では単なる名無しの「帝国」でしかなかったのです。

さて、だいぶ小ぶりとはいえ一応「帝国」の皇帝となり、念願を果たしたオットー大帝に比して、彼によって教皇の権威のランクを皇帝の下に位置付けられたヨハネス12世は当然面白くありませんでした。そこで教皇はハンガリーのマジャール人、ビザンツ帝国、さらにあろう事かかつての仇敵ベレンガリオ伯まで味方に付けて、オットー包囲網を築いて彼に反旗を翻しました。

教皇のこの動きに対し、オットー大帝はすかさず反撃に移ります。彼は、

「皇帝に忠誠を示さぬ教皇などいらぬ。」

としてヨハネス12世を廃位し、新たな教皇としてレオ8世を即位させたのです。ヨハネス12世はローマから追放され、27歳の若さで亡くなりました。


こうして後顧の憂いを排除したオットー大帝は、それ以後このイタリアの地に滞在し、新たに手に入れたこの領土の統治に専念して、ドイツ本国は後継者である息子オットー2世に任せて統治の経験を積ませます。しかし彼の皇帝即位と新たな帝国建国を快く思わないもう一つの巨大勢力がありました。それはコンスタンティノープルを中心として古代ローマ帝国の正当な後継者である東ローマ帝国すなわちビザンツ帝国です。

この両国の対立はやがて戦争に発展し、ビザンツ軍はイタリア奪還のためイタリア半島に上陸、968年から971年まで3年に亘り、イタリア半島南部プーリア地方で戦闘が繰り広げられ、晩年のオットーを悩ませましたが、やがて絶えず政情不安であったビザンツ帝国側の内紛によってビザンツ軍は撤退を余儀なくされたため、オットー大帝にとって思いがけない有利な展開となって終わりました。

この時の講和の条件として、ビザンツ側から当時のビザンツ皇帝の姪に当たるテオファヌと、大帝の息子オットー2世が結婚する事で和睦が成立し、大帝は最大の敵の介入を阻止する事に成功しました。

973年、老齢で体調を崩したオットー大帝は、テューリンゲンのメムレーベン宮殿で61歳で亡くなり、亡骸は故郷ザクセンのマクデブルクに運ばれ、最初の妻であるエドギタの隣に埋葬されました。(愛妻家だったようですね。)

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上が現在のマクデブルクの様子(人口28万)とオットー大帝の眠るマウリトス大聖堂の彼の棺です。
ヨーロッパ中央部にその後800年以上続く事になる帝国を築いた初代皇帝のものとは思えないほど質素で素朴なものですね。人柄が偲ばれます。


こうして彼の築いた神聖ローマ帝国は歴史の表舞台に登場するのですが、先に述べた様にこの段階ではまだそういう名で呼ばれたわけではありません。この名称はオットー大帝の死から数百年の間に、徐々に形作られ、付け足されていった国名であり、はっきりとその名で呼ばれる様になるのは13世紀になってからで、今回のテーマのもう一つの主役であるハプスブルク家が登場する頃まで待たなければなりません。

またこの帝国を語る上でもう一つ欠かせないのがローマ教皇の存在です。いずれ後から述べていきますが、帝国の頭につく「神聖」の文字はここから来ている事が容易に想像出来ると思います。

次回に続きます。
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