王朝の交代 ・ ザクセン家からザリエル家へ

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国(まだこの名前ではありませんが。)初代皇帝オットー大帝が973年に61歳で亡くなると、その息子であるオットー2世が18歳の若さで2代皇帝として即位しました。彼は父帝の偉業を受け継ぎ、「帝国」の版図の拡大と皇帝権の強化に乗り出しますが、かつて父が悩まされた各地の反乱に、彼も同じ様に悩まされました。

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上が2代皇帝オットー2世です。(955~983)彼は父の命に従い、ビザンツ帝国との和平の条件としてビザンツ皇帝の姪テオファヌと結婚し、次の後継者オットー3世を儲けています

彼が即位して最初の敵は、皮肉にもかつて父オットー大帝に最初に歯向かった弟バイエルン大公ハインリッヒの息子で、同名のハインリッヒ2世でした。(オットー2世にとっては叔父の子、つまり従兄弟に当たります。) この人物は別名「喧嘩公」と呼ばれているくらい気性の激しい性格だったようで、父や叔父がその後和解してともに帝国とザクセン王家の支配確立に協力したのに対し、終始オットー2世の元に服さず、やがて武力衝突に至り、978年に鎮圧するまで5年に亘る内乱となりました。

オットー2世の苦労は続きます。同じ頃ロートリンゲン大公の任命に端を発する争いから西フランク王国とも対立し、980年に和睦するまで戦争となります。なんとか休戦して西フランクの介入を阻止したオットー2世は、980年からイタリア遠征を行い、ローマを抜けて帝国の影響力が弱かったイタリア半島南部に兵を進めましたが、シチリアから北上したイスラム軍に惨敗してしまいました。

するとそこへ今度は帝国東北部(現在のポーランド、チェコなど)でスラヴ民族の反乱が勃発してしまいます。(もう散々ですね。)そしてオットー2世はその反乱鎮圧に向かう途中でマラリアに感染し、28歳の若さで亡くなりました。彼の在位10年は、帝国維持のための戦いに明け暮れて終わった不幸なものでした。

その後3代皇帝として即位した同名のオットー3世はわずか3歳でしたが母テオファヌと祖母アーデルハイトが摂政として幼い彼を守り、(この2人の女性はとても有能であったようです。)やがて成長すると父や祖父の目指した「ローマ帝国の復活」を夢見てイタリアに再度遠征します。

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上が3代皇帝オットー3世です。(980~1002)父オットー2世の肖像画ともども似たような姿で描かれているのは、恐らく母テオファヌが実家のビザンツ帝国の様式で描かせているからでしょう。

さて、彼も父や祖父同様内乱に悩まされますが、彼の人生の主な敵はローマ教皇でした。その背後にはビザンツ帝国が影で糸を引いていたようですが、996年にビザンツの意図を受けたローマ貴族クレスケンティウスが反乱を起こし、オットー3世(というより摂政である祖母アーデルハイト)が立てたザクセン家出身の教皇グレゴリウス5世を追放し、別の教皇ヨハネス16世を即位させてしまいます。

怒った彼は998年に軍勢を率いてローマに入城し、クレスケンティウスと教皇一味を捕らえて処刑すると、自分の家庭教師であり、当代きっての学者だったジェルベールをシルウェステル2世として次の教皇に即位させました。

しかしその勝利も束の間、1001年に今度はローマ市民が反乱を起こし、数に劣る皇帝と教皇はローマを脱出せざるを得なくなります。湿地帯の都市ラヴェンナへと撤退した彼らは、軍を再編成してローマの再攻略を図りますが、このラヴェンナへの撤退という選択は誤りでした。なぜなら蚊の多く出る湿地帯であったため、オットー3世は父と同じマラリアに感染してしまったからです。結局病状は好転せず、彼は21年という短い生涯を閉じてしまいました。

彼は独身であったため、その早すぎる死にザクセン家の本家では後継者がおらず、ドイツ諸侯は分家ではありましたがオットー2世と争ったバイエルン公ハインリッヒ2世の息子ハインリッヒ4世をハインリッヒ2世として(この辺り少しややこしいですが、この王家は同名の人物が続くのでご了承ください。)4代皇帝に選出しました。

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上が4代皇帝にしてザクセン朝最後となるハインリッヒ2世です。(973~1024)彼はオットー大帝以来3代の皇帝たちが夢見たローマを中心とする「ローマ帝国」ではなく、カロリング家のカール大帝が目指した帝国のあり方を模範とします。また彼は大変信仰心が強く、聖職者の任命などの教会人事も高潔かつ人徳の優れた人物を推挙していき、荘園なども惜しみなく教会へ寄進しました。(この点が評価され、彼は「聖ハインリッヒ」として聖人に列せられています。)しかし対外的には東の新興国ポーランドとの戦争に敗れ、後に陶磁器で有名になるマイセンなどの領土を奪われるなどして帝国領は縮小してしまいます。

その彼も1024年に51歳で男子の後継者を残さずに亡くなると、962年のオットー大帝の即位で開かれたザクセン王朝は4代62年で断絶してしまいました。

困ったドイツ諸侯は初代オットー大帝の娘ロイトガルトのひ孫に当たる、フランケン公コンラート2世を新たな皇帝に選出しました。ここに彼を初代とするザリエル王朝が正式に発足します。(この「ザリエル」というのは、当家がフランク族の一派サリー・フランク族出身であった事から、ドイツ語で「サリーの」を意味する「ザリエル」と呼ばれているそうです。)

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上の中央の人物がザリエル朝を開いたコンラート2世です。(990?~1039)彼は前王朝ザクセン王家の親戚筋とはいえ帝位など夢にも考えた事は無く、ザクセン家が絶えなければごく平凡なドイツの一領主として生涯を終えていたことでしょう。しかし彼はドイツ王に選出され、ローマで皇帝として戴冠して自らの新王朝を開くとなかなかの政治手腕を発揮します。中でも先帝ハインリッヒ2世の時代に縮小した帝国領の拡大に成功し、西のフランスからブルグント王国の領土を得て、ドイツ、イタリア、ブルグント3王国を支配します。

さらにコンラート2世はこの時初めて帝国の名称を正式に「ローマ帝国」とし、公式文書に記載させました。ここに「帝国」はようやく名前を得たのです。この頃正当な「ローマ帝国」の後継者ビザンツ帝国は内紛が相次ぎ、ローマ教皇やイタリアの反皇帝勢力も鳴りを潜めていました。つまり彼にとって幸いにも外征の必要がありません。

ハインリッヒ2世はこの間に、国内のドイツ諸侯の力を削ぎ、自らの帝権の強化を図ります。彼が行った政策はザクセン家の皇帝たちと同様に教会領の拡大でしたが、それ以外に彼は諸侯の家臣たちにも領地の世襲を認めました。これによりドイツ諸侯は上の皇帝と下の家臣たちに挟まれる事になります。(もし諸侯が家臣たちの領地に手を出すなどすれば、自分が家臣の反乱に遭うかも知れませんからね。諸侯による皇帝への反乱の抑止と丁度良いけん制です。)


こうして後の「神聖ローマ帝国」の形がコンラート2世の時代に形作られる事になりますが、その反面彼のこの統治システムが数え切れない小規模領主を生み、帝国を救いようの無い四分五裂の状態にしてしまう原因となってしまいました。

次回に続きます。
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