カノッサの屈辱 ・ 皇帝と教皇の戦い

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国第2王朝となるザリエル朝を開いたコンラート2世と、さらにその偉業を継いだ息子ハインリッヒ3世の君臨したザリエル朝初期の30年余りは、親子2代で築いた強大な皇帝権力を背景に当家の最盛期でした。

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上がザリエル朝2代皇帝ハインリッヒ3世です。(1017~1056)彼は父コンラート2世に劣らぬ優れた君主で軍事的才能にも恵まれ、対外的にポーランド、ボヘミア、ハンガリーなどの東欧スラヴ諸国をも従えます。さらに熱心なキリスト教徒であった彼は、当時混乱していたローマ教皇庁の乱れを正すためにイタリアにも遠征し、乱立する3人の教皇らを罷免追放して「皇帝の選任による」正当な教皇を即位させました。


しかし彼のこのやり方は、追放された者たちをはじめ、教皇庁内に皇帝家に対する深い禍根を残す事になり、やがてそれが「皇帝対教皇」の争いとなってその後数百年続く事になります。

ザリエル家にとって不幸な事に、この優れた皇帝ハインリッヒ3世は短命でした。(1056年崩御。享年39歳)後継者のハインリッヒ4世はこの時まだ6歳で、もちろん政務は取れませんから母親の皇妃アグネスが摂政となります。この時からローマ教皇らの皇帝家への反撃が始まりました。彼らはローマ教会の皇帝権力からの自立を目指し、オットー大帝以来それまで皇帝が持っていた教皇の選任を廃止、以後の教皇選出は「枢機卿団による選挙(コンクラーベ)によって決定する。」と決めてしまったのです。

もちろんアグネスらの皇帝政府はこれを拒否しましたが、ローマ教会側には無視されてしまいました。それだけではなく、それまでハインリッヒ3世らの強大な力で服属させられていたドイツ諸侯も、皇妃アグネスらを公然と無視してはばかりませんでした。(相手が女子供では何も出来まいと完全に嘗められてしまったのです。)

この様な中でドイツ諸侯の言いなりのまま成人したハインリッヒ4世は、やがてその皇妃さえも諸侯に押し付けられます。サヴォイア伯オットーの娘ベルタという女性でしたが、若い彼はこの押し付け結婚の過程が気に入らず、最初はこの女性を嫌ってそばにも寄り付かせませんでした。

しかし幼少から苦労続きの彼の人生において、この結婚は数少ない幸運でした。なぜならこのベルタこそ、ハインリッヒ4世の最高の伴侶であり、最大の協力者にして良き理解者だったからです。

やがて妻の献身を知り、彼女と愛情を育んだ彼は、夫婦力を合わせて教皇や諸侯らの反敵対勢力に立ち向かいます。目指すは皇帝権力の復活です。その手始めとして彼らは個人的な友人を中心として仲間を集めました。

この皇帝の動きに、それまで皇帝が幼少であったのを良い事に自領で好き勝手していた諸侯らは警戒します。ハインリッヒ4世はオストマルク伯領、バイエルン公領などを没収して自らの臣下に与え、1073年にザクセンにおいてわざと大規模な反乱を起こさせて一挙に皇帝権力の拡大を狙います。(このザクセン戦争は、皇帝である自分に味方すれば、恩賞として「領地」が貰える。つまり皇帝に従った方が「得」だと言う事を諸侯に知らしめるために画策されたものであった様です。)

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上はザクセンのゴスラーにあるハインリッヒ4世の皇帝居城。これは父3世の建てたものですが、ザリエル家はこのザクセンに多くの直轄領を保有し、その財源となっていました。しかしそれがザクセン貴族らのかなりの負担になっており、今次反乱の原因はこうした「お金」の問題も大きく絡んでいた様です。

このザクセン戦争は最終的に皇帝ハインリッヒ4世の勝利となりますが、これに勢いづいた彼はその矛先を南の敵ローマ教皇に向け始めました。彼はローマ教皇が任命した帝国内の聖職者を罷免して自分の意に沿った司教らを次々に任命し、時の教皇グレゴリウス7世を激怒させます。(この聖職者の任命権を巡る皇帝と教皇の争いが「叙任権闘争」と呼ばれるものです。)

St Gregorius VII 11

上が教皇グレゴリウス7世です。(1020?~1085)彼は1075年、皇帝の顧問を務める5人の司教を勝手に聖職を売買した廉で「破門」にし、さらに皇帝ハインリッヒ4世に対して、「以後皇帝は教皇に服従せよ。」とまで言い放ちます。これに対しハインリッヒ4世はただちに反撃に出ます。彼は帝国全土から司教24名を招集し(もちろん全て皇帝派です。)、現教皇の不倫の噂を理由にして、グレゴリウス7世の廃位を決議させたのです。

この皇帝の攻撃に、教皇グレゴリウス7世はついに最終手段に打って出ました。その最終手段とは、なんと皇帝を「破門」したのです。地上の支配者であり、キリスト教の守護者である皇帝が破門されるなど、これまで前例の無い前代未聞の出来事でした。

この事によって帝国内の諸侯は一斉に皇帝ハインリッヒ4世から離れていきました。今だ迷信深い人々の多かった中世の事です。神をも恐れぬ所業により歴史上初めて「破門」された皇帝になど味方していれば「地獄」に落ちるかも知れません。(というのは名目で、実際はこれで心置きなく皇帝に対して反乱を起こせるというのが本音だった様ですが。)

ハインリッヒ4世は窮地に陥りました。味方の離反が相次ぎ、さらに民衆の支持まで失っていったからです。彼はシュパイアーの城に籠って数ヶ月考え、事態打開のため教皇に謝罪する事を決意します。そして教皇が滞在するイタリア北部の田舎町カノッサに赴きました。

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上がカノッサ城です。真冬の2月に突然現れた皇帝に対し、教皇は「自分を捕らえる罠ではないか?」と恐れ、城から出て来ようとしませんでした。この時ハインリッヒ4世は自分が敵対心が無い事を示すため、武器を捨て、修道士が着る粗末な羊毛の長衣をまとい、雪のちらつく季節を裸足で3日間城門の前に立ちすくみ、教皇の許しを請いました。これが有名な「カノッサの屈辱」です。(といっても雪の中を3日間も裸足で云々というのは大げさな創作の様です。)

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上が「カノッサの屈辱」の主役である皇帝ハインリッヒ4世。(1050~1106)この絵は19世紀に描かれたものです。帝国の皇帝ともあろう者が、この様に身をやつして許しを願うのを、教皇も黙っているわけにはいきませんでした。なぜならキリストの教えは「許す事」であったからです。教皇は皇帝との会見を承諾し、皇帝の「破門」を解きました。

これは一見すると教皇の勝利の様に見えますが、皇帝ハインリッヒ4世にとってこれは一事しのぎの「大芝居」に過ぎませんでした。彼は「破門」を解いて再び味方を自分の下に集める事が目的であったからです。彼の目論みは成功しました。なんといっても彼は生まれながらの「王」であり、地上の支配者である「皇帝」なのです。信頼を回復した彼は帝国本土に戻り、たちまち反対派のドイツ諸侯を従えると再び皇帝権力を振りかざし、今度は逆に教皇を追い詰めていく事になるのです。

次回に続きます。
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