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叙任権闘争の行方 ・ ザリエル王朝の滅亡

みなさんこんにちは。

カノッサの屈辱の「大芝居」を演じて教皇グレゴリウス7世の破門を解き、態勢を立て直した神聖ローマ帝国ザリエル朝3代皇帝ハインリッヒ4世は、勢力を盛り返すとドイツ本国の反対諸侯を抑えてこれを平定し、今度は逆にローマ教皇に対して反撃に出ました。

これに対し、教皇グレゴリウス7世は再び皇帝を「破門」しましたが、同じ手は2度は通用しませんでした。ハインリッヒ4世はドイツの司教たちをけしかけてグレゴリウス7世を廃位させると、報復のため1180年新たな教皇クレメンス3世 (?~1100) を擁し、翌年大軍でローマになだれ込みました。

教皇グレゴリウス7世はローマ市内のカステル・サンタンジェロ(聖天使城)に籠城し、なんと4年以上も皇帝軍に抵抗し続け、その間に当時南イタリアを支配していた強力なノルマン人傭兵勢力の首領オートヴィル一族に救援を求めました。

Castel_SantAngelo_Rome.jpg

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上がサンタンジェロ城と、教皇が救援を求めたノルマン人傭兵の首領オートヴィル家のロベルト、ルッジェーロの兄弟。(そっくりなので、肖像画のどちらがそうなのか分かりませんが。笑)後に彼らはシチリア島に中世シチリア王国を建国する事になります。

彼らノルマン人は教皇の求めに応じ、1084年ルッジェーロ・グイスカルド率いる3万5千のノルマン軍が北上してローマに進軍しました。これにより形勢不利と見たハインリッヒ4世貴下の皇帝軍はローマから撤退。戦いは教皇の粘り勝ちの様に見えますが、皇帝軍撤退後のローマに入城したノルマン軍はとんでもない連中でした。なぜならノルマン軍の主力の大半がイスラム傭兵であり、彼らはローマに入ると略奪の限りを尽くして暴れまわったからです。

当時の傭兵たちにとっては、戦いの後の略奪は報酬とは別の「ボーナス」の様なもので、そもそも傭兵上がりのオートヴィル家にとってはそれがごく普通の常識だった様ですが、それをされる方にとってはたまったものではありません。ローマ市民の怒りは、こんな「狼」の様な連中を引き入れた教皇グレゴリウス7世に向けられます。

彼はローマにいられなくなり、ロベルト・グイスカルドらによって救出されるとモンテ・カッシーノ、サレルノへと移り、1085年5月同地で亡くなりました。

さて宿敵グレゴリウス7世を葬った皇帝ハインリッヒ4世でしたが、彼はその後もグレゴリウス7世の後に即位した3代の教皇や、絶えず反乱を起こして彼の失脚を狙うドイツ諸侯らなど、次から次へと現れる敵と戦い続けます。しかし彼はその類い稀な政戦両略によってこれらをはねつけ、皇帝として君臨し続けました。

そんな皇帝ハインリッヒ4世に、1098年信じられない相手が敵として立ちふさがります。なんと後継者である長男コンラート(1074~1101)が父に歯向かったのです。信仰心の厚いコンラートは「カノッサ」に代表される父の教皇への態度に苦悩し、そこを老獪な教皇庁に付け込まれ、父への反乱を決意したのです。

思いもかけぬ息子の反乱に驚愕したハインリッヒ4世は辛くも危機を脱すると、コンラートの王位継承権を剥奪し、コンラートを追放して次男のハインリッヒ5世を後継者と定めますが、1105年今度はなんとこの次男までもが父に反旗を翻しました。

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上は父4世から王位を継承するハインリッヒ5世です。(1086~1125)彼は兄コンラートと違って自らの意思で父に歯向かいます。彼は慎重に計画し、まず諸侯を味方に付け、貴族会議で父4世を廃位して軟禁し、自分が諸侯に推戴される形で王位に付きました。

父ハインリッヒ4世はこの軟禁から一旦脱出しますが、(軟禁と言ってもかなり緩いものだったようです。)なんといっても2人の息子の相次ぐ裏切りに完全に打ちのめされていました。彼の生涯は諸侯や教皇との戦いに明け暮れるものでしたが、それは所詮は「他人」との間の事です。彼が苦しい戦いを続けられたのは、全ては愛する息子に帝位を継がせてザリエル王朝の末永い繁栄を築くためでした。

その息子らに続けて背かれたのです。波乱万丈の人生を生き抜き、あらゆる敵を打ち倒して来た強大な皇帝である彼も、この事実に完全に打ちのめされ、立ち直る事は出来ませんでした。そして1106年8月、哀れな皇帝ハインリッヒ4世は56歳でこの世を去りました。

父の失意をよそに、帝位に着いたハインリッヒ5世は父の代から続いていた「叙任権闘争」に決着を着けるべく1110年ローマに遠征し、時の教皇パスカリス2世(?~1118)との間に次の様な取り決めを行います。

「皇帝側は聖職者の叙任権を放棄する。その代わりに教会側は土地、財産権を返還する。」


これはつまり、

「聖職者など教会で勝手に決めるが良い。しかし教会の領地から上がる財産その他は皇帝のものだ。」

というものです。ハインリッヒ5世は武力にものを言わせてこれを教皇に認めさせたのですが、こんな損な取り決めをローマ教会が黙っているはずがありません。皇帝がローマを引き上げると教皇らは直ちに諸侯らに謀略の手を回し、それに呼応した諸侯によって帝国各地で反乱が勃発。ハインリッヒ5世は父4世と同じ苦しい戦いを強いられる事になりました。


反乱は長期化し、結局1119年に皇帝側が折れ、教皇との和解を約束させられる事になります。そしてその後の交渉の末、1122年にヴォルムス協約が結ばれました。その内容は下の様なものです。

「叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威のみを与える。」

これは簡単に言えば字の通り、「聖職者の叙任権は教会に与える。」というもので、それは良いとしても、諸侯が最も関心を持つ教会の領地や財産権には触れずに 「棚上げ」 にした曖昧で中途半端なものでした。

こうして叙任権闘争は教皇側の勝利に終わったかに見えますが、ドイツ諸侯は腹の内では皇帝はもちろん教皇にも臣従する気などさらさらありませんでした。諸侯にとってはどちらも自分たちの利益のために利用出来れば良かったからです。やがてこの協約も皇帝・教皇両者間で破棄され、叙任権闘争はその後数百年も続いていく事になります。

さて諸侯の圧力で教皇と不本意な和議を結ばされた皇帝ハインリッヒ5世はその後も諸侯の平定に苦労していましたが、相次ぐ諸侯との問題を決着出来ぬまま、1125年に39歳でオランダのユトレヒトで亡くなりました。彼は皇妃との間に子がいなかったため、これによりザリエル王朝は初代コンラート2世から4代100年ほどで断絶してしまいました。

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上はハインリッヒ5世が亡くなったザリエル朝終焉の地ユトレヒトの街並みです。(人口およそ30万)このザリエル家の主役はなんといっても父の死により6歳で王位に付き、それから50年に亘って帝位を維持したハインリッヒ4世でしょう。彼の生涯は多くの敵と戦い続けた挙句に最後は子らに背かれるという哀れなものでしたが、「カノッサの屈辱」 の大芝居で歴史に名を残し、その後の君主や指導者らに「決して諦めない不屈の精神」を示した評価されるべき人物ではないかと思います。

次回に続きます。
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