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シュタウフェン王朝の成立 ・ 赤ひげ皇帝バルバロッサの登場

みなさんこんにちは。

1125年、ザリエル朝最後の皇帝ハインリッヒ5世が子孫を残さずに亡くなると、4代およそ100年続いたザリエル王朝は断絶してしまいましたが、ハインリッヒ5世は亡くなる直前、帝位をかつて父ハインリッヒ4世の下でザリエル王家に仕え、数少ない忠実な家臣であったシュタウフェン家に譲る事を願いました。

このシュタウフェン家は、当主フリードリッヒの代に「カノッサの屈辱」で有名な皇帝ハインリッヒ4世の皇女アグネスを妻に迎え、皇帝からシュワーベン公の位とその領地を与えられ、娘婿としてハインリッヒ4世を支えた一族であったからです。

このシュワーベン公フリードリッヒには息子が2人おり、彼の死後、長男で同名のフリードリッヒがシュワーベン大公を継ぎ、次男のコンラートがフランケン公としてそれぞれの領地の周辺諸侯ににらみを利かせ、力を合わせてザリエル王朝を支えた忠実で律儀な兄弟でした。

しかし当然ながら帝国諸侯は、この様に真面目で律儀なシュタウフェン家に帝位が移る事を喜ぶはずがありません。そこで諸侯は帝国内で古くから反乱の絶えない「火薬庫」であるザクセンの当時の領主であったズップリンブルク家のロタールをロタール3世として皇帝に選出しました。

Lothaire_III.jpg

上が皇帝ロタール3世です。(1075~1137)しかし彼の即位をシュタウフェン家は認めず、両家は10年に及ぶ内戦を展開しますが決着は着かず、結局シュタウフェン家はロタール3世を皇帝として認めます。しかしこのロタール3世は子宝に恵まれず、ズップリンブルク朝は彼一代で断絶してしまいます。

次の皇帝の座を狙ったのはロタール3世の娘婿でバイエルン大公ハインリッヒでした。この人物は別名「傲慢公」と呼ばれるほどの野心家で、自領のバイエルンの他、ロタール3世からザクセンまで継承していました。

Henry_the_Proud.jpg

上がハインリッヒ「傲慢公」です。(1100?~1139)いかにも気の荒そうな人物ですね。しかしこの様に力を持ちすぎる危険な人物を、帝国諸侯が皇帝に認めるはずも無く、(彼に比べればはるかに領地が少なく、理性的でマシだという理由で)結局1138年、次の皇帝にはシュタウフェン家のフランケン公コンラートが選出されました。

271px-Konrad_III_Miniatur_13_Jahrhundert.jpg

上が新たな皇帝となって新王朝を開いたコンラート3世です。(1093~1152)ここに彼を初代とするシュタウフェン王朝が正式に成立しました。彼は即位すると、まず最大の敵である「危険人物」のバイエルン公ハインリッヒを真っ先に捕らえ、修道院に幽閉するとその全領地を没収してしまいます。これは諸侯への見せしめの意味合いが強かった様ですが、傲慢公は無念の内に翌年亡くなります。

その後コンラート3世は1147年に時の教皇エウゲニウス3世の求めに応じて第2回十字軍に参加し、遠くシリアに遠征してダマスカスを包囲していますが、この遠征は参加した各国の主要君主がそれぞれの思惑でバラバラに行動したために失敗し、彼もイスラム軍の反撃で命からがら撤退しています。

528px-BattleOfInab.jpg

上がコンラート3世も参加したダマスカス包囲戦の様子。しかし結果は意思も疎通も取れない「烏合の衆」であったキリスト教国連合軍の惨敗で終わりました。

コンラート3世はドイツ本国に戻ると、もう外征はこりごりとばかりに帝国内の統治に専念する様になります。(彼は軍事より政治家として有能であった様で、皇帝権力の強化とシュタウフェン家の領土拡大に成功し、巧みな外交戦略で帝国諸侯と提携を図りました。)

しかしその半面で新たな敵が彼の前に現れます。かつて彼が追放したバイエルン公ハインリッヒ傲慢公の息子で同名のハインリッヒが、亡き父の遺領であるザクセンの相続権を主張して譲らず、結局彼は1142年、それをハインリッヒに返還する事になったのです。

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上がザクセン公ハインリッヒ (1129~1195)の銅像です。彼はまだ少年でありながら皇帝コンラート3世に対して一歩も譲らず、後にコンラート3世の死後、後を継いだフリードリッヒ1世に対してザクセンだけでなくバイエルンの相続権も要求し、1156年にこれを取り返して父の無念を晴らします。彼は軍事に秀で、勇敢だった事からハインリッヒ 「獅子公」と呼ばれ、また統治者としても有能で、ミュンヘン、リューベック、リューネブルクなどの都市を建設し、彼によって築かれたこれらの都市は、今日のドイツのそれぞれの中心都市として発展を続けています。

この若いハインリッヒ獅子公との対立は、老いた皇帝コンラート3世を悩ませ、やがて病に倒れて死期を悟った彼は、後継者として甥に当たるシュワーベン公フリードリッヒを次の皇帝に指名して1152年崩御します。

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上が神聖ローマ帝国シュタウフェン朝2代皇帝に即位したフリードリッヒ1世です。(1122~1190)赤毛の髪とあごヒゲを生やしていた事から赤髭王 (バルバロッサ、イタリア語)の愛称で呼ばれ、その後中世から現在まで、特にドイツ本国で最も人気の高い皇帝です。

このフリードリッヒ・バルバロッサについて当時実際に会った人の記録を見ると、「胸板の厚い男らしくたくましい人物で、明るくそれでいて物静かで一度会ったら忘れられぬ風貌と人格を持った、まさに皇帝にふさわしい人物である。」と記されています。多少の誇張もあるかもしれませんが、いずれにしても強烈な個性とインパクトを人に与える人物だった様ですね。

彼は皇帝に即位すると、帝国内の混乱を収拾するために帝国諸侯に特権を与えて手なずけるとともに、シュタウフェン王家の宿敵であるヴェルフェン家のハインリッヒ獅子公と和解してこれを収め、帝国内の足元を固めます。その上で1154年にイタリア遠征を行い、翌年教皇ハドリアヌス4世から戴冠されて正式に神聖ローマ皇帝となりました。

その後彼はイタリアの統治に専念しますが、その政策を巡っては教皇と度々対立し、その結果ドイツ本国の統治に手が回らなくなってしまいます。(帝国諸侯にとってはその方が都合が良かったでしょうが。)そのため彼は5回に及ぶイタリア遠征を行うはめになり、そのための多額の戦費が皇帝を悩ませる事になります。

そこで皇帝が目を付けたのが、当時北イタリア一帯で盛んな商業活動で財を蓄えていたロンバルディア諸都市でした。皇帝フリードリッヒ・バルバロッサはこれらの諸都市を皇帝家の直轄領にする事を目論見ます。

皇帝フリードリッヒ・バルバロッサを悩ませたこの遠征のための戦費すなわちお金の問題は、当時北イタリアに次々と興隆していたこれらの諸都市を大いに警戒させました。なぜならこれらの諸都市は、この頃から毛織物産業と金融業などで急速に経済力を付け、うなるほど金を持っていたからです。

やがて彼らは「皇帝の魔の手」から自分たちの築き上げた財産を守るために力を合わせて協力していき、皇帝フリードリッヒに立ち向かっていく事になります。

次回に続きます。
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