ロンバルディア都市同盟 ・ 皇帝と商人たちの戦い 

みなさんこんにちは。

1152年に叔父コンラート3世の後を継いで神聖ローマ皇帝となったフリードリッヒ1世バルバロッサは、「皇帝による世界支配」という単純明快な理念を終生追い求めた人物でした。しかしこれまで述べてきた歴代皇帝がそうであった様に、そうさせまいとする様々な敵が彼の前に立ちはだかります

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上は19世紀に描かれた皇帝フリードリッヒ・バルバロッサのイラストです。

その敵とは、第一にローマ教皇、第二に帝国内のドイツ諸侯、第三にその帝国諸侯の中でも最も強大かつ有能であり、その気になればいつでも帝国諸侯を味方に付け、バルバロッサから帝位を奪う事が出来るほどの実力を持つ、シュタウフェン王家の長年の政敵であるヴェルフェン家のハインリッヒ獅子公、そして第四にミラノを筆頭とする北イタリアの新興都市群でした。

これらの内、ローマ教皇や帝国諸侯はお馴染みの顔ぶれであり、ハインリッヒ獅子公などの様ないわゆる「ライバル」も、かつての皇帝たちには多かれ少なかれ存在していましたが、第四の敵である北イタリアの諸都市は、これまでの皇帝が相手にした事のない「新たな敵」でした。なぜなら彼らは王侯貴族ではなく、「お金」を武器として操る商人を頭とする平民たちであったからです。

当時この北イタリア地域は、北と南を結ぶアルプス山脈越え通商路で栄え、多くの都市が興隆していました。特に毛織物産業と金融業が隆盛を極め、驚くほど貨幣経済が発達し、世界で初めて動産抵当貸付(動産担保融資)という金融システムを生み出した事でも知られています。(普通金を貸す時は貸し倒れに備えて土地などの不動産を担保に取りますが、これは読んで字のごとく動産で金を貸す「質屋」に近いもので、欧米では広く行われています。例を挙げると現在でも北イタリアなどでは下の様に山と積まれた「チーズ」などを担保に銀行融資が行われているそうです。)

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これらの都市は盛んな商業活動で巨万の富を築いて大いに繁栄し、財を蓄えた商人を筆頭とする平民たちは皇帝による支配を拒んで合議による「共和制」の自治を求める様になっていきます。

皇帝フリードリッヒ・バルバロッサにとっても、これらの都市から上がるお金は喉から手が出るほど欲しいものでした。統治と外征にお金はいくらあっても足りる事はありません。彼は前回も述べた様にこれらの都市をシュタウフェン王家の直轄領として、帝国運営の財源とする事を目論見ます。

皇帝バルバロッサは1158年に、彼の宗主権を認めないミラノに対し、およそ10万の大軍で包囲します。もちろんミラノはたまらず降伏し、勢いに乗った彼はミラノ以下北イタリアの14都市に年3万ポンドの上納金の差出を義務付けました。(彼が一都市を降伏させるのにこれだけの大軍を動員したのは、他の都市への見せしめのためだったと思われます。)

しかし彼はやりすぎました。このあまりに多額の上納金の要求が、これらの都市全てを敵に回すことになってしまったのです。これらの都市はミラノを中心としてクレモナ、マントヴァ、ベルガモ、ブレシア、ボローニャ、パドヴァ、トレヴィーゾ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、ローディ、パルマなど26の都市に及び、一致団結して皇帝と戦う事を誓って1167年に「ロンバルディア都市同盟」を結成しました。 (この「ロンバルディア」とは、かつて北イタリアにあって、8世紀後半に神聖ローマ帝国の前身カロリング・フランク王国のカール大帝に滅ぼされたランゴバルド王国にちなんでいます。この地域の人々はそのランゴバルド人の末裔たちで、400年の時を越えて再び帝国と戦う事になったのです。)

この頃南のローマでも教皇の交代があり、新教皇アレクサンデル3世は北イタリア政策を巡ってバルバロッサと対立、その教皇をミラノが支援します。またしてもミラノが彼に歯向かったのです。この動きに対し、怒ったバルバロッサはミラノを「帝国の敵」と呼び、報復のため3回もミラノを包囲攻撃します。

戦いは当然強大な帝国軍が勝利し、1162年3月ミラノは皇帝の命によって完全に破壊されますが、このバルバロッサのミラノへの攻撃に教皇アレクサンデル3世は激怒し、1165年に皇帝バルバロッサを「破門」してしまいます。

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上がバルバロッサを破門した教皇アレクサンデル3世です。(1105?~1181)彼は前教皇ハドリアヌス4世の方針を受け継ぎ、「帝国は教皇のものであり、皇帝は教皇に臣従せよ。」と強圧的に振る舞い、バルバロッサと激しく対立します。

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上がロンバルディア都市同盟の盟主ともいうべき都市ミラノの現在の様子です。(人口約132万)この街はローマに次ぐイタリア第二の都市で、なんと言ってもファッションの街として有名ですね。古い街並みの中に近代的な高層ビルが建ち並んでいる点は、わが国の京都と似た様な状況でしょうか。

教皇による皇帝の破門は、先の「カノッサの屈辱」のハインリッヒ4世の先例があるため、皇帝バルバロッサは屁とも思わなかった様ですが、彼が恐れたのは破門による神罰などという非現実的な迷信ではなく、従えている帝国諸侯がこれを口実に反乱を起こして彼を脅かす事でした。

その兆候はすでに出始めていました。特にこれまでのイタリア遠征では素直に従軍していた皇帝に次ぐ帝国第二の実力者、ザクセンのハインリッヒ獅子公が遠征を渋る様になり、他の諸侯もこれに同調する動きを見せていたからです。

皇帝バルバロッサはこの事態を憂慮し、教皇アレクサンデル3世に対しては対立教皇を立ててこれに対抗し、自らの破門による影響に対しては、新約聖書の一節を採り上げて皇帝権力の正当性と絶対性を主張して「沈静化」を図ります。

彼が聖書を読みあさって採り上げたその一節とは2つの剣にまつわる話で、キリストが弟子たちに宗教的権威と世俗的権力を前者は「教剣」、後者は「政剣」という2つの剣を例にして語った云々という話です。つまり「政剣」すなわち世俗的権力を持つ皇帝は、キリストすなわち神から直接それを与えられているのだから、その地位は地上で最高の「神聖なもの」なのであって、「教剣」を持つ教皇はその地位は同じにしても、そもそも教皇などから世俗的権力に口を挟まれる筋合いは無く、増して教皇には「破門」などという権限すら最初から無いのだ。というものでした。

彼はこの理論をはっきりと世に示すために、自らの帝国を「神聖帝国」と名付けます。帝国は神から与えられた権利によって築かれた神聖なものであるという事です。そしてここに初めて「神聖」の文字が帝国の歴史に登場します。しかしこの時に帝国名が正式に「神聖ローマ帝国」となったわけではありませんでした。なぜなら皇帝バルバロッサはその在位中に一度もその公式文書にその名称を使っていないからです。

彼がなぜそうしなかったのか理由は不明ですが、彼の帝国はドイツ、イタリア、ブルグントなどかつての「ローマ帝国」とは比較にならない小ぶりなものであった事から、初代皇帝オットー大帝の様に「ローマ」の名を入れるのを避けたのかも知れません。

さて、皇帝のこの動きに教皇アレクサンデルも負けてはいません。何しろ彼には豊富な資金力を持つロンバルディア都市同盟が味方であるからです。そして彼らはその存亡を賭けてさらに激しい戦いを繰り広げていく事になります。

次回に続きます。
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