皇帝バルバロッサの死 ・ 第3回十字軍の失敗

みなさんこんにちは。

1173年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ・バルバロッサと、ローマ教皇・ロンバルディア都市同盟の連合軍との対決は時間の問題となっていました。翌1174年から皇帝バルバロッサはこれらの敵対勢力を討伐するため、4回目となるイタリア遠征を計画し、帝国諸侯に参陣を命じます。

しかしそれまで常に皇帝に献身し、皇帝に次ぐ帝国第二の実力者であったザクセンのハインリッヒ獅子公が公然と皇帝を批判し、自領ザクセンの紛争と帝国東部のポーランドとの国境防衛を理由に、「今度ばかりは付いていけぬ。」と出兵を拒否。それに多くの諸侯も同調し、バルバロッサの軍勢は自らの直属軍数千を数えるのみでした。

これでは戦になりません。やむなく彼はロンバルディア都市群の商人たちが持つ豊富な金を与える事を餌に傭兵をかき集め、自分の直属軍を合わせて何とか1万を越える軍勢を集めると第4次イタリア遠征を開始しました。

しかしこの遠征は最初から無茶なものでした。そして1176年5月に北イタリアのレニャーノで、皇帝バルバロッサの軍勢3千はロンバルディア都市同盟の連合軍3千5百と激突しましたが、ロンバルディア側にも大損害を与えたものの、結果は皇帝軍がほぼ全滅に近い大敗に終わり、このイタリア遠征は大失敗に終わります。

La_battaglia_di_Legnano_di_Amos_Cassoli.jpg

上は19世紀前半に描かれた「レニャーノの戦い」の様子です。金次第でどこにでも付く粗末な身なりの荒くれ者の傭兵たちが、豪華な身なりの皇帝の騎士たちをなぎ倒しています。このレニャーノの戦い以後、ヨーロッパではナポレオンの登場する近世までのおよそ600年以上に亘り、彼ら傭兵が戦争の中心となります。

この戦いの敗北で命からがらドイツ本国に帰還したバルバロッサの怒りは凄まじく、特にその怒りは自分に味方せず、公然と彼を批判した帝国諸侯の筆頭であるザクセンのハインリッヒ獅子公に向けられ、「この敗戦の責任は帝国最大の兵力を持ちながら我が下に参陣しなかったハインリッヒ獅子公にある。」として、1180年にハインリッヒ獅子公を「皇帝に対する不服従と帝国への反逆」により、ザクセン、バイエルンなど彼の全領地を没収し、彼を帝国から追放してしまいます。(哀れな獅子公は妻の父親(義父)に当たるイギリス王ヘンリー2世を頼って亡命しました。)

皇帝バルバロッサの怒りはそれだけに留まらず、「獅子公に同調して遠征に参加しなかった諸侯どもも皆同罪だ。」として主だった帝国貴族たちを獅子公同様に追放、領地没収などの刑に処しました。これにより諸侯の数は大きく減り、帝国は整理統合され、何よりこれらの措置で震え上がった残りの諸侯たちが皇帝バルバロッサに反対する事は二度と無くなりました。

さてこうして帝国内の反対勢力はねじ伏せたものの、皇帝バルバロッサと外敵であるローマ教皇・ロンバルディア都市同盟との関係は今だ戦争状態でした。こちらについてはこう着状態のまま時が流れ、結局1180年に彼は教皇アレクサンデル3世との講和に応じ、事実上彼のイタリア征服は完全な失敗に終わりました。

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上は「講和の証」として教皇アレクサンデル3世にひざまづく皇帝バルバロッサを描いたフレスコ画です。実際に皇帝がこの様に教皇に屈したのかは定かではありませんが、この戦いにおける皇帝の敗北は事実です。

しかし、彼はこれで引き下がる様な小者ではありません。バルバロッサは非常に有能な皇帝でした。彼は教皇との直接対決を避け、南のノルマン人勢力が築いたオートヴィル朝シチリア王国に接近し、後継男子のいなかった同国の王グリエルモ2世の王女コンスタンツァと息子ハインリッヒ6世を結婚させ、将来のシチリア王位の獲得に成功しています。これによりローマ教皇を南北で挟み撃つ事が出来、さらにこの時彼が布石を打ったおかげで、彼の孫フリードリッヒ2世の時代にシュタウフェン朝はドイツではなくシチリアで「12世紀ルネサンス」と呼ばれる華やかな文化の華を咲かせるのです。

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上の図はノルマン人のオートヴィル家が築いたシチリア王国の範囲です。やがてバルバロッサの目論見通り、息子ハインリッヒ6世が王位に付き、シュタウフェン家がこの国を乗っ取る事になります。

皇帝フリードリッヒ・バルバロッサはローマ教皇やロンバルディア都市同盟との戦いには一時的に敗れたものの、それ以外の方面では彼自身の類い稀な才能によってほぼ全面勝利していました。この時期の彼はドイツ、北イタリア、ブルゴーニュ、ボヘミアなどを支配下に収め、これまでの歴代皇帝の中で最も強大な皇帝として帝国に君臨します。(1184年に行われた皇太子ハインリッヒ6世の刀礼式には、祝いのために帝国中から諸侯と騎士が集まり、その数は7万を越えたそうです。戦でもないのにこれだけの諸侯が集まったのは、皇帝バルバロッサに対する畏敬の念以外の何ものでもないでしょう。)

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上の図はこの時代の神聖ローマ帝国の勢力範囲です。(正確にはザクセン、ザリエル朝時代のものですが、バルバロッサが君臨したシュタウフェン朝時代の帝国の版図と大差はありません。)

これまでの皇帝たちの中で最も完全に帝国を支配し、権力の頂点にいる中で、やがて皇帝バルバロッサの中に、聖地エルサレム奪還のための十字軍に対する熱い想いが込上げていきます。当時エルサレムはアイユーブ朝イスラム帝国によって占領されており、彼は「神から与えられた神聖な権利によって世界を支配する皇帝として、聖地エルサレムが異教徒に蹂躙されるのを黙って見ているわけにはいかぬ。」として1189年、時の教皇グレゴリウス8世の呼びかけに応じ、第3回十字軍の総大将として、総勢10万の大軍を率いて小アジアに遠征します。

入念に準備し、充分な戦力で同地に上陸したバルバロッサ率いるキリスト教国連合軍はイスラム軍を次々と撃破し、大戦果を収めましたが、1190年6月総大将である皇帝バルバロッサは野営地の近くの川で水浴中深みにはまって溺死するという不幸な事故で急死してしまいました。(享年68歳)

総大将を失ったキリスト教軍は、態勢を立て直して反撃に転じたイスラム軍の攻勢によって総撤退を余儀なくされ、こうして第3回十字軍は失敗に終わります。しかしその事よりも、皇帝バルバロッサのあまりに突然の意外な死がヨーロッパ社会に与えたショックは大きく、特に生前の彼の強大さを知る帝国本土、とりわけドイツ本国では、「皇帝フリードリッヒ・バルバロッサは不死身であって、ドイツが危機に陥った時に蘇ってドイツの危機を救うのだ。」という皇帝伝説として、長くドイツの民衆の間に語り継がれていく様になったそうです。

BUNDES~1

後の第2次大戦中に、ヒトラー率いるナチス・ドイツが行った300万の大軍によるソ連への侵攻作戦を「バルバロッサ作戦」と呼ぶのは、強大な皇帝であった彼の伝説にあやかり、ドイツ勝利の願いを込めて名づけられたものです。(上が作戦指導するヒトラーとドイツ軍首脳部。結果は広大なソ連領内に深入りしすぎてもたもたしているうちに冬になり、猛烈な寒さとソ連軍の反撃で泥沼の消耗戦に陥り、ヒトラーの補給を軽視した独善的な作戦指導も相まって大戦後半は多くの兵を失うひどい負け戦となり、逆にドイツを破滅に導いてしまいましたが。)

次回に続きます。
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