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バルバロッサの遺産 ・ シチリア王国併合

みなさんこんにちは。

962年のオットー大帝の即位によって築かれた「神聖ローマ帝国」の歴史の中で、これまで帝位についた就いたどの歴代皇帝よりも最も完全に帝国を支配した強大な皇帝フリードリッヒ1世・バルバロッサが、第3回十字軍の遠征先である小アジアの荒野で急死した後、その後は息子のハインリッヒ6世が25歳で帝位を継承しました。

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上がシュタウフェン朝3代皇帝ハインリッヒ6世です。(1165~1197)彼はわずか4歳でドイツ王となり、父帝バルバロッサと親子二人の共同統治者として君臨し、やがて父の急死によって北の帝国本土以外に南のノルマン・シチリア王国の王位もその「遺産」として継承していました。

彼が父バルバロッサの死によって帝位を継いだ1190年の終わりにノルマン・シチリア王国の王家オートヴィル家で、彼の皇妃コンスタンツァの父に当たるグリエルモ2世が亡くなり、後継者の絶えた同家は生前のバルバロッサとグリエルモ2世の取り決めにより、娘婿のハインリッヒ6世がシチリア王位を継ぐ事が決まっていたからです。

ハインリッヒ6世は君主としては父には及ばないにしても、若き皇帝として出来る限りその務めを果たすべく奔走します。しかしシチリア国民は外国人の皇帝に支配される事を嫌い、オートヴィル家初代国王の庶子(私生児)の子孫であるレッチェ伯タンクレーディ(1139~1194)をシチリア王に擁立します。

ハインリッヒ6世はこの動きを封じるためシチリア遠征の準備をしますが、ここで思いもかけぬ敵が彼の前に立ちふさがります。その敵とは父バルバロッサのライバルであり、かつて父が追放した帝国第二の実力者ハインリッヒ獅子公でした。獅子公はバルバロッサの死によって密かにドイツに戻り、自領のザクセンを奪い返して再び帝国に復権を果たすべく反乱の火の手を挙げたのです。

ハインリッヒ6世はこの反乱に忙殺され、獅子公とは一時休戦してようやくシチリアに向かったのは1191年になってからでした。そしてイタリア半島を南下した皇帝軍は、シチリア軍の最重要拠点であるナポリを包囲します。しかしシチリア軍の抵抗は激しく、ナポリの街を取り囲む城壁に阻まれた皇帝軍は、さらにこの地でひどい疫病に悩まされ、皇帝軍の苦戦を知った獅子公が休戦を破って再び反乱を起こしたために、やむなく遠征を中止して撤退する事を余儀なくされてしまいました。

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上がこの時のナポリ包囲戦を描いた絵と、下が現在のナポリの街並みです。

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ドイツ本国に戻ったハインリッヒ6世と獅子公との戦いはその後3年余り続きますが、帝国随一の剛勇で知られた獅子公も老齢には勝てず、皇帝との協議でかつての領地を大幅に減らされたものの、追放の解除と帝国貴族への復帰を最終条件として、1194年6月に両者は完全講和に至りました。(名誉挽回を果たした獅子公は、翌1195年に66歳で亡くなります。)

こうして帝国本土の内乱を終わらせたハインリッヒ6世は、いよいよ待ちに待ったシチリア征服のために遠征軍を組織するとイタリア半島の南下を開始します。ちょうどその頃、彼にとって幸運な事に「正当なシチリア王」を名乗っていたタンクレーディが亡くなり、彼の子でまだ9歳のグリエルモ3世が王位を継いでいましたが、ここで皇帝は一計を案じます。

彼はシチリア側に対し、自分のシチリア王位を認めてくれれば、まだ幼いグリエルモ3世を元のレッチェ伯として領地を安堵し、他の者たちも一切罪は問わないと約束したのです。シチリア人たちはこの申し出を受け入れ、1194年9月に同国の首都パレルモが無血開城されました。

しかしこれは皇帝による完全な「騙まし討ち」でした。彼は同年12月25日のクリスマスに念願のシチリア王として戴冠しましたが、その際シチリア側と交わした「一切の罪は問わない。」との約束を破り、反乱に加担したシチリア貴族数百名を逮捕、投獄、処刑してしまいます。それだけではありません。ハインリッヒ6世はなんと幼い少年王グリエルモ3世の両目を潰し、さらに去勢までしてドイツ本国に送り、幽閉してしまったのです。(この皇帝ひどいですね。度重なる反乱が彼をこんな残酷な人物にしてしまったのでしょうか?それだけ皇帝がこの少年王の復権を恐れていたのでしょう。)

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上がこの時王位を奪われ、失明させられた哀れな少年王グリエルモ3世です。(1185~1198?)彼の死によって、フランス北部の傭兵から身を起こし、その知略と勇猛果敢さで南イタリアを征服し、ナポリ・シチリア王国を建国したノルマン人王朝オートヴィル家は、5代わずか60年余りで断絶してしまいます。

皇帝のこの卑劣なやり方に、当然シチリア人たちは怒りを爆発させます。彼らは皇帝に対して再度の反乱を企てますが、シチリアの有力者たちは皇帝によってほとんど抹殺されており、すぐに行動を起こす事は困難でした。そこで彼ら反乱グループは地下に潜伏してその機会を窺います。戦に破れ、祖国を帝国軍に占領されたとはいえ、彼らは決して諦めませんでした。なぜなら彼らには「強力な味方」が背後から支援していたからです。

その「強力な味方」とは神聖ローマ皇帝の仇敵とも言うべき「ローマ教皇」でした。教皇にとって、南のシチリアが皇帝のものになれば、ローマを中心にイタリア半島中央部に位置する教皇国は南北から挟み撃ちにあって身動きが取れなくなるからです。しかし状況は今のところ皇帝ハインリッヒ6世に有利に動いていました。権謀術数に長けた教皇庁は反乱の火の粉を温存しつつ、静かに時を待ちます。

そんな事が影で進行していた事を知ってか知らずか、念願のシチリア王位を手にした皇帝ハインリッヒ6世はわが世の春を謳歌していました。さらに彼の幸運は続きます。シチリア王として戴冠した翌日、後継者となる待望の王子が生まれたのです。これが後に次期皇帝となるフリードリッヒ2世です。

ドイツ本国を抑え、南のイタリアを支配した彼の次の目的は、亡き父バルバロッサが果たせなかった異教徒からの聖地奪回、すなわち十字軍です。その前に彼は父のやり方に倣い、生まれたばかりの王子フリードリッヒをドイツ王にするため、諸侯と教会の承諾を得るための帝国議会に出席するためシチリアを離れ、1195年にドイツ本国に帰国します。

「皇帝不在」シチリアの反乱勢力とそれを陰で操るローマ教皇庁が待っていたのはまさにこの時でした。彼らはハインリッヒ6世の留守の隙にシチリア全土で一斉に反乱の火の手を上げ、留守部隊の皇帝軍に襲い掛かります。この情報は直ちにドイツ本国の皇帝の下にもたらされ、急遽シチリアに戻った皇帝によって、反乱は再び鎮圧されます。

すでに先に述べたグリエルモ3世の例にもある様に子供にも容赦しない冷酷さを発揮し、反乱に対しては徹底的な弾圧で応じる事を信条にしていたハインリッヒ6世は、今回も捕らえた反乱者たちを苛烈極まる方法で次々に処刑していきましたが、彼のこのやり方はシュタウフェン家に対するシチリア人たちの憎しみを増幅させるだけでした。

そしてその報いは、やがて皇帝ハインリッヒ6世の下に戻ってくる事になります。1197年9月、彼は反乱鎮圧の作戦中マラリアに感染し、高熱にうなされた挙句32歳の若さで急死してしまったからです。彼の皇帝在位はわずか7年余りでした。

彼の死によって帝位はわずか3歳のフリードリッヒ2世に移りますが、シュタウフェン王朝はあまりにも脆弱でした。やがてまだ何も分からぬこの幼帝を巡って、ローマ教皇と帝国本土のドイツ諸侯が(自身の利益のために)駆け引きを繰り広げていく事になります。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
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