ブーヴィーヌの戦い ・ 熾烈な帝位争奪戦

みなさんこんにちは。

1197年9月、父バルバロッサに劣らぬしたたかさでシチリアを手に入れた神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世は32歳の若さで亡くなりましたが、後を継ぐ息子のフリードリッヒ2世はまだわずか3歳でした。そのため当初は母である皇后コンスタンツァ(1154~1198)が摂政として幼い息子の後見人となりますが、シチリア王女でもあった彼女は夫ハインリッヒ6世の命によりシチリア弾圧を実際に実行していたドイツ諸侯を嫌い、彼らをシチリアから追い出そうと彼らにドイツ本国への帰国を命じます。

しかしドイツ諸侯がこれに素直に従うはずがありません。皇后と諸侯は対立しますが、結局それから1年余り後の1198年11月、皇后コンスタンツァはまだ幼いフリードリッヒ2世の事を案じながら夫の後を追う様に亡くなります。そして彼女のドイツ諸侯への対応はその後のシチリアに10年に及ぶ内乱を招く事になってしまいました。

それでも彼女は短い期間でしたが摂政として息子フリードリッヒのために奔走し、時のローマ教皇インノケンティウス3世にフリードリッヒのシチリア王即位を認めさせ、自らの死が近づくと、自分亡き後のフリードリッヒの後見人を教皇に託しました。

一方帝国内では、幼少のフリードリッヒを巡って帝国諸侯が対立を激化させていました。皇后コンスタンツァ亡き後、先帝ハインリッヒ6世の末弟であり、シュタウフェン王家の実質的家長であったシュワーベン公フィリップと、シュタウフェン家の宿敵であるヴェルフェン家のオットー4世が帝位を狙って帝国を二分する争いを展開していたからです。

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上がシュワーベン公フィリップです。(1178~1208)彼は幼いフリードリッヒ2世の叔父に当たり、当初はライバルのオットー4世より優勢でしたが、1208年に娘の結婚問題からバイエルンの貴族に暗殺されてしまいます。(この暗殺は、教皇インノケンティウス3世が影で糸を引いていた様です。教皇はシュタウフェン家のシチリア支配を阻止するため様々な妨害をしていました。)

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そしてこの人物がヴェルフェン家のオットー4世です。(1175~1218)彼はバルバロッサのライバルでもあったハインリッヒ獅子公の次男で、フィリップの暗殺によって正当な後継者であるフリードリッヒ2世が幼い事を良い事に、これを差し置いて1209年、神聖ローマ皇帝として教皇インノケンティウス3世から戴冠されます。

オットー4世の皇帝即位によって、シュタウフェン家は一時的ではありますが、神聖ローマ皇帝位を他家に奪われてしまいます。しかしその後、皇帝オットー4世は神聖ローマ皇帝の慣例ともいうべき「イタリア遠征」を計画し、軍勢を集結させました。しかしこれが彼のつまづきの始まりとなります。(これは彼にとってその地位を脅かす最大の存在であったシチリアのフリードリッヒ2世を狙ったものと思われます。) 

なぜならそのオットー4世の前に、世界で最も難しい(というより面倒な)敵が立ちふさがったからです。それは彼を皇帝にしたローマ教皇インノケンティウス3世その人でした。皇帝のイタリア遠征計画を知った教皇はこれに怒って1210年に皇帝を「破門」してしまい、これによってオットー4世は帝国諸侯の支持を失う事になってしまいます。

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上が皇帝オットー4世を破門した時の教皇インノケンティウス3世です。(1161~1216)彼は先帝ハインリッヒ6世の皇后コンスタンツァから幼いフリードリッヒ2世の後見人を託されていました。また彼はローマ教皇がその宗教的権威を最も発揮した「教皇権全盛時代」の教皇の一人でもあり、彼の演説にある「教皇は太陽であり、皇帝は月である。」の言葉からも当時の権威のほどがうかがえます。

皇帝オットー4世にとって状況は悪くなる一方でした。こうして時を重ねるうちに、南のシチリアにいる神聖ローマ帝国の正当な帝位継承者フリードリッヒ2世はすくすくと成長してすでに13歳になっており、その彼の後見人は他ならぬローマ教皇自身でした。オットー4世が敵になった以上教皇はまだ少年であり、自由に操れるフリードリッヒ2世を帝位に付かせる事は時間の問題です。そうなれば教皇と諸侯の都合でうまく皇帝になった彼はいつ廃位されてもおかしくないのです。

それだけではありません。シチリアを狙うフランス王フィリップ2世がフリードリッヒ2世の帝位継承を支持し、南の教皇とともに西からオットー4世を追い立てる手筈を整えていました。不利な状況に陥った皇帝オットー4世は態勢を挽回するため、当時フランスにおける領土奪還に燃えていた叔父に当たるイングランド王ジョンを味方にしてこれらに対抗します。(今回の事態はこれまでの皇帝たちがかつて散々悩まされた教皇と諸侯に加え、イングランド王とフランス王まで介入する大規模なものになっていました。)

やがて彼らの対立は激化し、ついに1214年7月、フランス北部フランドルとの国境に近いブーヴィーヌで両者は決戦に及びます。「ブーヴィーヌの戦い」の始まりです。両軍の兵力は皇帝軍2万5千に対し、フランス軍は1万5千で、兵力ではイングランド軍を含めた皇帝軍が圧倒していました。そのため戦闘は当初は皇帝・イングランド連合軍が有利でしたが、皇帝軍は帝国諸侯も合わせた混成部隊であったために指揮統率が乱れ、結局フィリップ2世の下で統一組織されたフランス軍の反撃で皇帝軍は戦死1千に対し、1万近い捕虜を出して大敗してしまいました。

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上が開戦の前に騎士たちを鼓舞激励する当時のフランス王フィリップ2世です。(1165~1223)彼はフランス第2王朝であるカペー朝第7代国王で、イングランド、神聖ローマ帝国、ローマ教皇、国内のフランス諸侯らを巧みな政略で向こうに回しつつ、それまで脆弱だったフランス王国の国威を高めた事で、フランス最初の偉大な王として「尊厳王」と呼ばれています。

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そして上の人物が皇帝オットー4世の同盟者であり、当時のイングランド王ジョンです。(1167~1216)彼はイギリス第2王朝であるプランタジネット朝第3代国王で、世界で始めて君主の権力を制限し、後の立憲君主制の元となるあの「大憲章」(マグナ・カルタ)を認めさせられた事で有名な王ですね。彼はこの戦いでフランスに敗れて領土を大きく失なった事から「欠地王」、「失地王」などと呼ばれ、さらに教皇には「破門」され、国内統治もうまくいかなかった事からイギリス本国では「イギリス屈指の暗君」と呼ばれてしまっています。

上のフランス王フィリップ2世とは正反対ですね。彼の失敗は長くイギリス歴代王家に語り継がれ、そのため後のイギリス歴代王朝では「ジョン」という名は縁起が悪いと言う事で、彼と同名の「ジョン」という王はその後現在に至るまで一人も存在しません。彼が「ジョン1世」と呼ばれないのはそのためです。(先日生まれたイギリスのウイリアム王子とキャサリン妃の王子も「ジョージ」でしたね。将来彼がイギリス王になれば、現エリザベス女王の父王がジョージ6世でしたから、順番からいって「ジョージ7世」になると思われます。)

さて皇帝オットー4世に話を戻しますが、彼はこの敗北によって当然のごとく皇帝としての権威も信用も失い、帝国諸侯と教皇によって1215年廃位され、失意の内に自領のブラウンシュヴァイクで3年後に亡くなります。そして帝位はすでに18歳の立派な若者に成長していたフリードリッヒ2世に戻り、シュタウフェン家が皇帝家として返り咲くのです。

次回に続きます。
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