フリードリッヒ2世とシチリア王国 ・ 早熟の秀才皇帝

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国の帝位がシュタウフェン王家に戻った1215年頃、同王家の当主は若干18歳の若き王フリードリッヒ2世でした。彼はバルバロッサの孫に当たり、ドイツ王であり、帝国皇帝であった父ハインリッヒ6世と、ノルマン・シチリア王国の王女であったコンスタンツァを母に持つ、まさに北と南の申し子でした。

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上が神聖ローマ帝国シュタウフェン朝第4代皇帝フリードリッヒ2世です。(1194~1250)しかし彼の幼少期はわずか3歳で父を、その翌年には母を亡くし、物心ついた時点ですでに寄る辺なき「孤児」という不幸なものでした。その上まだ幼い彼を利用して権力を握らんとする叔父や帝国諸侯など、周囲の大人たちの都合勝手に振り回され、母コンスタンツァの計らいで何とか「シチリア王」の王位とローマ教皇の庇護という身分的保護を得てはいたものの、彼の立場は「吹けば飛んでしまう」非常に弱いものでしかありませんでした。


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このフリードリッヒ2世について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。上巻300ページ、下巻は278ページほどで、地中海世界の歴史を語らせたら他に並ぶものの無い作家、塩野七生さんの最新作です。この方は小説家なので、学者の書いた本とは全く違うくだけて分かりやすい、それでいて緻密な分析に基づいた優れた作品である点が大きな魅力です。

そんな幼い王の後見人兼保護者であったのが当時のローマ教皇インノケンティウス3世で、彼は懐に飛び込んできたこの幼子を、将来の神聖ローマ帝国と、ローマ教皇国の命運を左右する「強力な切り札」として手厚く保護育成し、まだ幼い今の内にローマ教皇に絶対臣従する敬虔なカトリック信者に仕立て上げ、成長した彼を帝位につけて間接的に帝国を教皇の意のままに動かし、支配する事が出来るよう教育すべく、選りすぐりの教師団を彼のいるシチリアの首都パレルモに差し向けます。

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上がシチリアの首都パレルモの現在の街並みの様子です。(人口およそ67万人。)しかし教皇の将来を見据えた遠大な計画の命を受け、はるばるシチリアにやって来た教師団は早々に驚愕させられました。なぜならこの幼い王が、あまりに早熟した頭脳を持つ天才であったからです。

幼いフリードリッヒは諸侯によって人質生活を余儀なくされ、その生活は日々の食事にも事欠く有様で、哀れに思ったパレルモ市民から食糧を分け与えてもらう様な状況でしたが、彼は食事に代えて「知識」を貪欲に食べ続けていきます。彼はすでに4歳にしてラテン語を習得し、普通の子供なら絵本に親しんでいる年齢で歴史と哲学の本を読み始め、10代に達する頃にはギリシア語、アラビア語、ドイツ語、イタリア語、フランス語などを合わせ6ヶ国語を操り、科学にも深い興味を抱き、さらに知力だけでなく肉体面においても馬術、槍術、狩猟で優れた才能を示したからです。

これは教皇にとって全く予想外でした。教皇はフリードリッヒを意のままに操れる狂信的カトリック教徒にするか、さもなくば知と教養の場から遠ざけ、政治にも軍事にも無関心で酒色に溺れる無能な王に仕立てるか、いずれにしてもローマ教皇国に無害な人物にするつもりでいたからです。周囲の大人たちがこの様な人々ばかりの中で、フリードリッヒは徹底的な現実主義者へと成長していきます。

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もともとフリードリッヒ2世の生まれ育ったシチリアのパレルモは、地中海の中央にあってイスラム、ビザンツ、ラテン文化が入り混じる当時最先端の知の宝庫でした。ヨーロッパとオリエント両方の全てが融合し、互いに共存して豊かな文化を花開かせていたシチリアは、当時の人々の憧れの場所だったのです。フリードリッヒは幸運にもこの地で生まれ育ち、それらに直に触れながら豊かな教養を身に付けていきました。

その頃北のドイツ本国では、諸侯が帝位を狙って相争い、それにローマ教皇、さらにはイギリス、フランスの王まで介入する始末でした。フリードリッヒは1210年わずか15歳でアラゴン王国の王女コンスタンツァと結婚し、(奇しくも亡き母と同じ名の妻でした。)その翌年には早くも後継者ハインリッヒ王子を儲けます。そして彼のいない間に皇帝となっていたヴェルフェン家のオットー4世が教皇との対立から廃位されると、新たなドイツ王となるべく初めてドイツに向かいます。

神聖ローマ皇帝はまずドイツ王になってからローマ教皇に戴冠されないと皇帝になれないのです。彼は生まれたばかりの息子ハインリッヒにシチリア王位を譲り、1220年までドイツ本国に滞在し、諸侯と教会の支持を集め、入念に自らの皇帝即位の準備をしていきます。そして同年、新教皇ホノリウス3世から即位の暁には「十字軍の実行」を条件にめでたく25歳で神聖ローマ皇帝として戴冠しました。

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上は彼が宮廷を置いたパレルモのノルマンニ宮殿です。オートヴィル朝時代のものをそのまま引き継いだもので、アラブ、ビザンツ、ノルマンの各様式が混合した典型的な建物です。(両翼の建物も全て宮殿の一部で、写真には写っていませんが、もっと大きな宮殿です。)

皇帝となったフリードリッヒ2世でしたが、彼は活躍の場を終生イタリアとシチリアに留め、帝国本土であるドイツ本国は息子ハインリッヒに任せきりで、ほとんどドイツに赴く事はありませんでした。彼がドイツに滞在したのは、皇帝即位前のドイツ王時代の最初の8年間のみです。これは彼のシチリアへの強い思い入れが影響しているのでしょう。

皇帝フリードリッヒ2世は長い内乱で荒れ果てたナポリ・シチリア王国の再建に取り掛かります。彼は父の代から続くシチリア反乱勢力の覆滅のため、各地の城砦を攻撃、陥落後破壊して新たな皇帝直轄の城を建設し、信頼出来る直属の行政官を派遣して支配を徹底させます。さらに将来の帝国の行政を担う官僚を養成するため1224年にナポリ大学を創設しました。(この大学はヨーロッパで最も古い大学の一つとしても有名です。)

こうして彼の統治は着々と進んでいたのですが、彼を皇帝として戴冠させた教皇ホノリウス3世は、皇帝がいつまでたっても約束の十字軍遠征に出かけようとしない事にいらいらしていました。さらに彼は、皇帝がイスラム教徒たちを優遇し、有能な者を側近として重用している事を苦々しく思ってもいました。

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上が教皇ホノリウス3世です。(1148~1227)彼はフリードリッヒの家庭教師として前教皇インノケンティウス3世から遣わされた人で、言わば「先生」でした。教皇は再三皇帝に対し、約束通り十字軍に出かけて異教徒を討伐し、聖地エルサレムを取り返すよう要求しますが、皇帝フリードリッヒは統治の忙しさを理由にのらりくらりとそれを先延ばし、結局教皇が亡くなるまで動こうとはしませんでした。

育ての親である教皇インノケンティウスと、教師のホノリウスも死んだ今、もはや彼にとって頭が上がらない相手はいなくなり、「重荷」の取れた彼とローマ教皇国とのつながりは途切れるのですが、やがてこの十字軍問題が、皇帝フリードリッヒとローマ教皇の長い戦いの引き金となり、以後彼は異教徒ではなく教皇の差し向ける敵と戦い続ける事になっていくのです。

次回に続きます。
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