早過ぎた近代人 ・ 敵はローマ教皇なり

みなさんこんにちは。

皇帝フリードリッヒ2世の家庭教師であり、フリードリッヒの十字軍遠征を何度も催促していた教皇ホノリウス3世が、ついにそれを見る事なく1227年に亡くなると、次の教皇グレゴリウス9世は一向に腰を上げようとしないフリードリッヒに対し、ついに十字軍を率いて聖地エルサレムを奪回しなければ「破門」すると脅しをかけて来ました。

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上が新教皇グレゴリウス9世です。(1143?~1241)彼は先の二代の教皇と違って皇帝フリードリッヒとなんらつながりは無く、また100歳近く生きた大変な長命で、歴代教皇でも屈指の厳格な法学者でもありました。

「破門」を突きつけられ、廃位の危機が迫ったフリードリッヒ2世はやむなく1228年、4万の軍を率いてエルサレムへと出発します。第6回十字軍の始まりです。しかしその途中で軍内に疫病が蔓延して多くの兵を失い、皇帝自身もそれに感染してその時は上陸もせずに帰って来てしまいました。

この知らせを聞いた教皇は、「戦に赴き、戦いもせずに逃げ帰ってくるとは何事か!」と激怒し、皇帝の病など「仮病」だといって結局フリードリッヒを破門してしまいました。フリードリッヒは破門を解くために教皇との会談を持ちかけますが、頑固な教皇は彼に会おうともしませんでした。 

仕方なく皇帝は破門されたまま残存部隊を率いて再び遠征に出かけますが、キリスト教軍の総大将である皇帝がそのキリスト教徒としての身分を剥奪されているのですから士気が上がるはずはありません。現地では味方の離反が相次ぎ、それ以前に宗教に寛容なシチリアで育った皇帝自身が、そもそも十字軍などやる気はありませんでした。

しかしはるばるやって来たからには何かしなければなりません。幸い彼は幼い頃からイスラム文化に深く接し、イスラム教徒のものの考えも良く理解していたので、当時のアイユーブ朝イスラム帝国のスルタンであったアル・カーミルとの間で極めて理性的かつ現実的な交渉が行われ、1229年2月、10年間の期限付きでエルサレムとその周辺の返還と、和平条約の調印に成功します。

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上がエルサレム返還と和平交渉に臨む皇帝フリードリッヒ2世(左)と、アイユーブ朝君主アル・カーミル(1180~1238)です。この2人はその後何度も手紙をやり取りしてその学識の豊かさを語り合い、親睦を深めてとても仲が良くなり、互いを「わが親友」として生涯親交を交わしました。

なぜこの時フリードリッヒ2世はこの様な条約を結んだのでしょうか?それは彼が徹底した現実主義者であった点からある程度推測が出来ます。幼い頃から歴史を良く研究していた彼は、人類の歴史に「恒久平和」など一度も存在せず、今後もありえない事を分かっていました。それならばたとえ10年という期限付きでも、「少なくともその間は平和と安定が享受出来れば良いではないか。」というのが彼の考えでした。

それに彼は民族、文化、宗教の違いといった「価値観の多様性」を認め、例えば「宗教はキリスト教だけが唯一絶対のもの。」という様な一つの価値観で他を完全否定するのではなく、考えの違う相手でもそれを尊重し、互いに共存し合う国家の建設を思い描いていました。つまり彼の目指した理想の国家とは、かつてそれを歴史上唯一実現した「古代ローマ帝国」であったのです。

しかし彼の理想は凡人たちには理解出来ようはずがありません。ローマ教皇をはじめ、現地のキリスト教騎士団は今回の皇帝の異教徒への対応を「弱腰だ。」として非難し、教皇グレゴリウス9世は、北イタリアの諸都市に命じて南イタリアに兵を進めさせます。まだ皇帝が帰国しないうちに先手を打ってフリードリッヒの根拠地ナポリ・シチリア王国を占領してしまうつもりでした。皮肉な事に、フリードリッヒの敵はエルサレムにではなく、ローマにいたのです。

「敵はローマ教皇なり。」 

フリードリッヒの命令一下、イタリアに戻った皇帝軍は素早く反撃してたちまち教皇軍を撃破し、劣勢に立った教皇は1230年にフリードリッヒの破門を解かざるを得なくなります。こうして破門を解き、十字軍もやり終えた皇帝は、1231年に以前から考えていた法令の発布を実行し、帝国内にシュタウフェン王家による絶対主義体制の確立を打ち建てようとします。彼が発布した法令の主なものは、かつての古代ローマ皇帝たちが思考したもので、

・都市・貴族・聖職者の権利の制限、
・司法・行政の中央集権的性質の確立、
・税制・金貨の統一、


の3本柱から成り、他にもはるか後の18世紀以降の近代啓蒙君主たちが思考した次の様な条文なども含まれています。

・貧民を対象とした無料の職業訓練・診察、
・私刑の禁止、
・薬価の制定、
・役人に対する不敬・賄賂の禁止、

この様に先進的な考えの持ち主であった事から、フリードリッヒ2世は後の歴史学者から「玉座の上の早過ぎた近代人」と称されるようになります。


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上は皇帝フリードリッヒ2世が発行した金貨です。地中海交易の中継地であるシチリアを持つ彼は帝国の経済的安定のため、交易から上がる収入を徴税する事を基本として様々な経済政策を打ち出しますが、この分野においてはあまり上手くいかなかった様です。なぜなら、フリードリヒはシチリア統治の初期時代から収入を商人からの借金の返済に充てており、治世末期には財政の大部分を商人からの借金に依存する構図が完成していたからです。

しかし彼は、学問と文化、芸術に大変な興味を抱いていました。パレルモの彼の宮廷ではユダヤ人以外にプロヴァンス、イングランド、イタリア、ビザンツ、イスラムの知識人が招かれ、シチリア宮廷は13世紀ヨーロッパにおいて最高の文化サロンとして発展します。

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上は19世紀に描かれたパレルモの宮廷の様子です。皇帝フリードリッヒ2世を中心に、人種、宗教を問わず、様々な人々が描かれています。皇帝の学問への飽く事無き興味は文学、天文学、数学、物理学、生物学にも及びました。

フリードリッヒ2世がみずからの権力基盤の強化に着々と取り組んでいた頃、ローマでは教皇グレゴリウス9世が焦りを募らせていました。このままフリードリッヒを野放しにしていては、ドイツとイタリアは完全に一つの帝国として一体化してしまい、南北から挟まれたローマ教皇国は存立の危機に立たされてしまう。教皇にとってナポリ・シチリア王国と北のドイツ神聖ローマ帝国本国は、なんとしても分断させたままにしておかなければなりませんでした。

「あのイスラムかぶれが、我らを侮りおって!何か貶める手立てはないものか?」

教皇は密かに帝国諸侯と北イタリア諸都市に謀略の手を回し、再びフリードリッヒへの攻撃準備に取り掛かります。そしてそのための「道具」としてある人物を巻き込み、その事がやがてフリードリッヒとシュタウフェン家に悲劇をもたらす事になっていきました。


次回に続きます。
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