堕ちた鷲の紋章 ・ シュタウフェン王朝の滅亡

みなさんこんにちは。

神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世がシチリアのパレルモで華やかな宮廷文化の花を咲かせていた1230年頃、その長男で後継者であるハインリッヒ7世は、父帝から共同統治者であるドイツ王として北のドイツ本国を任されていましたが、ドイツでは帝国諸侯が相変わらずそれぞれの利益と権利を取り合う状態で、国王であるハインリッヒ7世の統治の及ぶ地域は限定されており、事実上彼の地位は父帝からドイツ本国を任された「総督」に過ぎないものでした。

これは「古代ローマ帝国」を理想の国家としていた父フリードリッヒ2世が南のナポリ・シチリアを帝国の本拠地とし、ドイツその他をその「属州」の様に考え、その属州に皇帝権力に対して反乱を起こさせないためには絶えず諸侯同士を争わせて「足の引っ張り合い」をさせて置く方が良いという方針だったからですが、息子ハインリッヒ7世は父のこうしたやり方に反発し、王として全ての上に君臨する事を望んでいました。

彼は自らの王権の強化を図ろうと諸侯の領地経営に介入しますが、これは諸侯の猛反発を買い、父フリードリッヒも息子の意向より諸侯の権利を尊重して1231年に「諸侯の利益のための協約」を結んで多くの権利を諸侯に認めてしまったので、ハインリッヒは父に対して大きな不満を抱くようになります。

Heinrich_(VII)_Huldigung_Wuerzburg_1234.jpg

上がドイツ王ハインリッヒ7世です。(1211~1242)そんな皇帝親子の行き違いにつけ入り、若いハインリッヒをそそのかしたのが、父フリードリッヒの仇敵であったローマ教皇グレゴリウス9世でした。帝国の南北分断と皇帝フリードリッヒ2世の失脚を画策していた教皇は、そのための格好の「道具」として、皇帝の最大の弱点である息子を利用しようとしたのです。

教皇はハインリッヒにこう入れ知恵します。

「そなたは一人ではない。ロンバルディアと手を組めば良いのだ。」

ロンバルディアとは北イタリアの諸都市の事で、毛織物産業と金融業で財を成した富裕な商人たちが、その豊富な財力をバックに自治権を得、かつてバルバロッサをはじめ歴代皇帝と激戦を交えた事もある皇帝もおいそれと手を出せない地域でした。教皇はこのロンバルディアにも皇帝への抵抗を促します。

「あのバルバロッサの孫フリードリッヒが再びそなたらの自由を奪いに来るぞ。」 と。


ハインリッヒは教皇の誘いにまんまと乗り、同じく同調したロンバルディアと同盟してついに1234年、父に反旗を翻しました。しかし彼の計略はあまりに稚拙で無謀でした。なぜなら彼に味方する帝国諸侯は一人もおらず、彼の軍勢はその直属の家臣からなる数百騎の手勢だけだったからです。頼みの綱のロンバルディア都市同盟も、堅固な城壁を盾にした籠城戦は得意であったものの、平地での地上戦となると話が違い、結局彼の反乱は父によってあっさりとひねり潰されてしまいました。

降伏したハインリッヒの運命は悲惨なものでした。彼は王位継承権を剥奪された上、両目を潰されてプーリアの城に幽閉されてしまったのです。そして1242年2月に別の城に護送される途中で、父の兵の監視の隙を突いて谷底に身を投げて自殺してしまいました。(享年31歳)

Henry_7_Stauf.jpg

上がハインリッヒの投身自殺を描いた当時の絵です。この知らせに父である皇帝フリードリッヒ2世の心は当然痛みました。しかし皇帝である彼は心を鬼にするしかなかったのです。そしてこの事件を境にシュタウフェン家は滅亡への道を歩んでいく事になります。

ハインリッヒの死後、フリードリッヒは次男コンラート4世を新たな後継者にすると、今だ敵対するロンバルディア都市同盟に対して、これを討伐するため北イタリア遠征を行います。戦いは激戦の末皇帝軍が勝利したものの、彼の前にはその後も教皇の放つ敵が次々と現れました。業を煮やした皇帝は、教皇に従う全ての者を「敵」とみなすと脅しをかけ、教皇の下に集まる聖職者たちを逮捕、投獄していきます。そんな中の1241年、最大の敵ローマ教皇グレゴリウス9世が亡くなり、一時的に教皇側に権力の空白が出来ますが、1243年に新教皇インノケンティウス4世が即位して再び皇帝との戦いが再燃します。

新教皇インノケンティウス4世は前教皇グレゴリウスに引けを取らない謀略家でした。彼はフリードリッヒの手から逃れるため、ローマから遠くフランスのリヨンに移り、ここから対皇帝戦を展開します。教皇はフリードリッヒを破門の上廃位し、さらにはフリードリッヒを「神の敵」として帝国諸侯に「十字軍」まで呼びかけて反乱を煽り立てました。

事態はシュタウフェン王家にとって悪くなる一方でした。ドイツ本国ではハインリッヒの死後ドイツ王にしたフリードリッヒの次男コンラート4世に対して対立王が次々と現れ、教皇が焚きつけた帝国諸侯の反乱も各地で起こっていました。皇帝フリードリッヒ2世はそんな状況の中で、彼にとって唯一信頼出来る直属のイスラム軍部隊を率いて残りの生涯をこれらとの戦いに費やしていきます。(それにしてもキリスト教の守護者であるはずの神聖ローマ皇帝の軍勢が異教徒のイスラムであり、その敵がキリスト教徒の教皇や諸侯なのはなんとも皮肉な事ですね。)

そしてその戦いの最中の1250年12月、早過ぎた近代人にして早熟のリベラリスト皇帝フリードリッヒ2世は、56歳でその波乱に富んだ生涯の幕を閉じます。彼の夢見た帝国の建設は、幻のまま終わりを迎えました。帝位は次男コンラート4世が継承しますが、彼はわずか4年の在位で亡くなり、シュタウフェン王朝の終焉はもはや時間の問題となっていました。

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上がシュタウフェン朝5代皇帝コンラート4世です。(1228~1254)彼の死後、その子コンラディンがシチリア王になりますが、皇帝として戴冠は出来ず、事実上彼がシュタウフェン家最後の皇帝となりました。

416px-Konradin.jpg

そしてこの少年がシュタウフェン王家最後の人コンラディンです。(1252~1268)彼はバイエルン公の下に身を寄せていましたが、叔父たちが教皇との戦いに敗れて敗死すると、シチリア王位奪還のためイタリアに向かい、フランス王ルイ9世の末弟で、かねてから南イタリアを狙うシャルル・ダンジューと戦います。しかしまだ少年であった彼は百戦錬磨のダンジューに敗れて捕らえられ、1268年同世代の親族7人とともにナポリのマルカート広場で斬首されました。(享年わずか16歳)

JHWTischbein01.jpg

上が捕らえられ、斬首を言い渡されるコンラディンたちを描いた絵です。3歳年上の親族で、仲の良かったバーデン辺境伯フリードリッヒ1世とともにいる所で、勝利したシャルル・ダンジューは彼らを処刑する事で、シュタウフェン家の根絶やしを図ったのです。こうして初代コンラート3世以来6代130年余り続いたシュタウフェン王朝は滅亡し、皇帝の鷲の紋章は地に堕ちてしまったのです。

次回に続きます。
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