大空位時代 ・ ローマ教皇と帝国諸侯の思惑

みなさんこんにちは。

1254年、神聖ローマ皇帝コンラート4世が即位してわずか4年後に26歳の若さで崩御すると、権力の空白が生まれた帝国内では帝国諸侯が次の帝位を巡って動き出し、また外においてはローマ教皇やイギリス王、フランス王などがこの機に乗じてそれぞれの勢力を伸ばそうと暗躍していました。

この間に「帝国皇帝」として戴冠するための前提条件である「ドイツ王」には候補者が乱立しますが、ローマ教皇や帝国諸侯らの足の引っ張り合いによってどれも決め手となる人物がおらず、神聖ローマ帝国は約20年に亘って帝国と言いつつも皇帝のいない時代を迎えることになります。いわゆる「大空位時代」の到来です。

先帝であるコンラート4世は、それまで5代120年以上も続いた帝国第3王朝であるシュタウフェン王朝出身でしたが、この王家は宿敵ローマ教皇との積年の対立によって次第に弱体化し、その後コンラート4世の子コンラディン王子はじめ、生き残った一族の帝位奪還のための奮闘も空しく、1268年のコンラディン王子の処刑と、彼の叔父であり、先帝コンラート4世の末弟であるエンツォの獄死によって、1272年に同家は断絶してしまいました。

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上が投獄されるエンツォです。(1220?~1572)彼はフリードリッヒ2世の私生児であり、父に似て教養も豊かな人物でした。その後先帝コンラートの異母兄弟としてサルデーニャ王を名乗りますが敗れて捕えられ、服役中に亡くなります。彼と甥のコンラディンの死で、ナポリ・シチリアに君臨したシュタウフェン王家は完全に滅亡しました。

さて残された帝国ですが、こちらは先に述べた様に教皇と帝国諸侯によってすでにシュタウフェン朝末期の数年前から対立王が次々と擁立されては消えていきます。チューリンゲン伯ラスペ、ホラント伯ウイレム(オランダ)、カスティリア王アルフォンソ10世(スペイン)、コーンウォール伯リチャード(イギリス)などです。これらの人々のうち、前者の2人は擁立後数年で亡くなり、後者の2人はそもそもドイツ諸侯ですらありませんでした。(当時の帝国諸侯にとって「皇帝」の存在がいかに「誰でも良い」ものであったか良く分かりますね。)

しかしこの中の1人であるホラント伯ウイレムという人物が、ここでささやかですが、ある意味で重要な事をしています。彼はドイツ王擁立の際に、将来自らが君臨する(予定であった)帝国にそれまで統一されていなかった名称をはっきりと付けたのです。それが「神聖ローマ帝国」でした。

後に「ドイツ国民の」という呼称が蛇足の様に付けられますが、初代皇帝オットー大帝即位以来300年の時を経て、それまで時の皇帝の方針次第で「帝国」「ローマ帝国」「神聖帝国」などところころ名が変転していたこの国家に、この時初めて正式な名が与えられたのです。名付け親のホラント伯ウイレムは、その後不慮の事故で亡くなり忘れ去られますが、その後19世紀の帝国崩壊まで550年以上に亘ってこの国は公私共にこの名で統一される事になったのです。

さて話を戻しますが、この頃帝国内は20年に亘る皇帝不在の間に混乱が続き、諸侯同士の争いも相まって各地で略奪が横行していました。中でもその損害を最も多く被っていたのが、諸侯よりもはるかに固有の武力が弱い教会領でした。そしてそれらの教会領を統べる、時のローマ教皇グレゴリウス10世は

「このままでは我らの財源である教会領が盗賊どもや諸侯によって奪われてしまう。」

と懸念し、1272年に帝国諸侯に次の様な声明を出して一刻も早く新国王を選出する様促します。


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上が当時のローマ教皇グレゴリウス10世です。(1210~1276)彼の懸念は教会領を荒される事だけではありませんでした。この頃から西のフランス王国が力を付け始め、当時のフランス王フィリップ3世が帝位を狙って立候補して来たからです。もし彼が皇帝になれば、帝国はフランス、ドイツ、イタリアにまたがる広大なものになってしまいます。それはローマ教皇にとって「悪夢」以外の何物でもありませんでした。

「直ちに新国王を選出して混乱を終結されよ。さもなくば自分が新王を決定する。」

教皇にとって帝国が強大になってしまっては困るのです。帝国の領域はあくまでもドイツとその周辺部に限定し、ドイツ諸侯の中から選出された者が「ドイツ王」となり、さらにローマ教皇の手によって戴冠されてはじめて「神聖ローマ皇帝」となるというスタイルにして置かなければなりませんでした。


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上が教皇グレゴリウスが密かに恐れた当時のフランス王フィリップ3世です。(1245~1285)彼は勇敢ではありましたが単純で乗せられ易い性格で、彼の帝位立候補は、叔父であり、シュタウフェン家を滅ぼしてナポリ・シチリア王となった野心家のシャルル・ダンジュー(1227~1285)が裏で暗躍していた様です。

教皇から新国王選出の通告(というより脅し)を受けた帝国諸侯たちでしたが、今日の議会の様に全ての諸侯に国王選出の権利があったわけではありませんでした。この頃からその権利を持つ「選帝侯」と呼ばれる一部の有力諸侯たちが大きな力を持つ様になります。

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上がその「選帝侯」を描いた中世の絵です。彼らは7人で構成され、上の絵の左側にいる赤い帽子の3人の聖職者(マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教)と、4人のドイツ諸侯(ザクセン公、ボヘミア王、ブランデンブルク辺境伯、ライン宮中伯)から成る言わば当時の「G7」でした。このうちマインツ大司教が筆頭とされ、名目上ではありますが「帝国大宰相」という最高官位を持っていました。

彼ら選帝侯たちはこの時代に(それ以前からですが。)帝国の混乱に乗じて特権と領地を掠め取り、のし上がっていった帝国随一の実力者たちで、以後帝国皇帝は彼らのみの選挙によって決められていくのですが、その彼らの新国王選出の判断基準は極めて利己的なものでした。

つまり彼ら選帝侯たちは、(他の諸侯もそうですが。)自分の領地で好き勝手やっていたいのです。そのためにはあまり有能で強大な皇帝を選んで即位させてはそれが出来なくなり、今までの様に甘い汁が吸えなくなります。神聖ローマ帝国に絶対君主は要らない。彼らにとって「ドイツ王」すなわち「皇帝」などは、諸侯をまとめるそこそこの力量を備えた言わば「毒にも薬にもならない。」人畜無害な人物であれば充分だったのです。

教皇の圧力でようやく新国王選出の準備に取り掛かった選帝侯たちですが、ここで困った事が起こります。彼らの目にかなう格好の人物がいないのです。これまでに擁立した人々はこの時期皆すでに亡くなっており、前王朝シュタウフェン家に連なる人物は、ローマ教皇らの絶対反対にあって実現せず、残る候補はフランス王フィリップ3世と、ボヘミア王オタカル2世でした。

このうちフランス王の方は、ドイツ諸侯で無い事を理由にあっさり否決されたので、教皇が最も恐れた「帝国の拡大」は杞憂に終わりますが、選帝侯の一人であるボヘミア王は候補から外すわけには行きませんでした。しかしこのボヘミア王オタカルは野心家でなおかつ力を持ちすぎているため、強大な皇帝を出したくない他の選帝侯たちが彼を選ぶはずはありません。

そこで新たなドイツ王として彼らが選んだのは、それまで誰も注目していなかったスイス辺境の山奥の小さな領主に過ぎないある一人の伯爵でした。その名をルドルフ・フォン・ハプスブルクといいます。そしてこの時からこのルドルフと、彼の一族であるハプスブルク家が歴史の表舞台に登場していく事になるのです。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
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