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鷹の城の主 ・ ルドルフ1世とハプスブルク家の出現

みなさんこんにちは。

1254年のコンラート4世の死から20年近く、ドイツ王すなわち皇帝のいなかった神聖ローマ帝国でしたが、その間に帝国内外に生じた数々の混乱にたまりかねた時のローマ教皇グレゴリウス10世の新国王選出の催促によって、国王選出の権限を持つ7人の「選帝侯」たちはようやく重い腰を上げ、新たなドイツ王を選出しました。

しかし彼ら選帝侯たちが選んだのは、誰もがその結果に「仰天」する様な全く意外な人物でした。その名はルドルフ・フォン・ハプスブルク。ライン川上流、スイスのバーゼルからさらに奥地にある辺境の一領主でした。

438px-Schnorr_von_Carolsfeld_-_Rudolf_von_Habsburg_vor_Basel.jpg

上が新たなドイツ王に選出されたルドルフです。(1218~1291)彼は正式にはハプスブルク伯ルドルフ3世といい、前述の様に帝国内に数多くいる「辺境伯」の一人に過ぎませんでした。この時彼は隣の領主であったバーゼル司教と領土争いの最中で、バーゼルの街を包囲し、明日にも総攻撃を仕掛ける準備をしていた所でした。

そこへ選帝侯の筆頭であるマインツ大司教から、使者としてニュルンベルク伯フリードリッヒがルドルフの陣に遣わされ、彼にドイツ王即位の決定を伝えたのです。ルドルフは彼と旧知の仲でしたが、フリードリッヒがあまりに突拍子の無い事を言い出したので、呆れたルドルフは彼に対して思わずこう言ったと伝えられています。

「人をからかうにもほどがある。そんな冗談は宴の時だけにしてもらいたい。」

そのやり取りを描いたのが上のイラストです。(さぞかし驚いた事でしょうね。情景が目に浮かぶようです。)しかしすぐにそれが事実である事を知るや、ルドルフはただちに明日の総攻撃を中止し、バーゼル司教と和睦して軍勢を引き揚げ、大急ぎで選帝侯会議の行われているフランクフルトに向かいました。もちろん国王即位のためです。

この時選帝侯たちが、ルドルフの様な辺境の裕福でもない弱小貴族を新国王に選出した理由は、前回もお話した様に自分たちの利益のために有能で強大な皇帝を即位させたくないという徹底した利己主義からでした。その結果領地も少なく、率いる兵力はかき集めても一千に満たず、質素で敬虔なカトリックである(つまり金はあまり無く、武力も強くなく、ローマ教皇と対立する心配も無い厳格なカトリック教徒である。)彼が選出されたのです。

こうして1273年9月、ハプスブルク伯ルドルフはドイツ王ルドルフ1世として即位しましたが、この人物、かなり外見に特徴のある人だった様です。痩せた長身でそれだけでも人の目を引くのですが、それ以上に人の注目を引いたのが彼のその大きな「鷲鼻」と、突き出た顎や下唇でした。(かなり強烈なインパクトのある顔の人だった様ですね。この彼の特徴的な顔立ちは、後に彼の子孫たちである歴代ハプスブルク家の人々に隔世遺伝として受け継がれていきます。)

さてこれでおよそ20年続いた神聖ローマ帝国の「大空位時代」は終わり、帝国の歴史は新たな段階に入っていくのですが、その前にここでルドルフの一族であるハプスブルク家について、彼らの起源と発祥地などをご紹介して置きましょう。

ルドルフがドイツ王に選出された時から遡る事200年ほど前、10世紀の中ごろからハプスブルク一族は、スイスのバーゼルとチューリッヒの中間に位置する地域を領地とし、そこに小さな城を築いて当家の居城としました。その城の名は「ハビヒツブルク城」といい、ドイツ語で「鷹の城」を意味します。(「鷲」ではないんですね。)そしてこの「ハビヒツブルク」が、当家の名「ハプスブルク」の由来であると云われています。

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上がハプスブルク家発祥の地である現在の「ハビヒツブルク城」の全景と城内の様子です。写真で見ると本当に小さな城であるのがお分かり頂けると思います。日本のお城でいうところの「天守閣」に相当する城の半分が現存していますが、「二の丸」とも言うべき部分は崩れて土台だけが遺構を留めています。(現在このお城はハプスブルク家発祥の地として、城内にささやかなミュージアムが作られ、それ以外はなんと結婚式場やレストラン、各種イベント会場として利用されているそうです。時代の移り変わりもここに極まれりですね。)

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上は築城当時のハビヒツブルク城の想像図です。ルドルフ1世はこの「鷹の城」の城主でした。後にヨーロッパ最大最長の王朝の創始者とされる彼は、かつてこの小さな城で寝起きしていたのです。そしてこの小さな城から「神に選ばれた一族」ハプスブルク家の人々の途方も無い物語が始まるのです。

ハプスブルク一族が領有したこの地は確かにスイスの山奥の辺境でしたが、近郊にはライン川につながる支流がいくつも流れる水上交通の要所があり、またドイツとイタリアを結ぶアルプス越えの街道にも近い、陸の交通の要所でもありました。ハプスブルク一族はこれらを行き来する人々から「通行税」などを徴収して財源とし、また十字軍遠征に失敗して留守中に領地や財産を失った騎士たちなどを召し抱えるなどして少しづつ勢力を伸ばしていった様です。

さらに彼らはザクセン家、ザリエル家、シュタウフェン家といった初期3王朝の歴代神聖ローマ皇帝たちのイタリア遠征などに同行して皇帝への忠義に励み、何度か武功を立てて皇帝から「辺境伯」の地位と、所領の安堵などを認められ、小さいながらも帝国諸侯の一員としてその末座に加わっていったのです。

しかしこの時期のハプスブルク家の歴史について、その他の詳しい事は良く分かっていません。何しろ900年も昔の事ですし、そもそも記録そのものがほとんど残っていないのです。彼らハプスブルクの名が歴史にはっきりと登場したのは、やはりこのルドルフがドイツ王として選出されて以降の事で、そのため後に当家が神聖ローマ帝国の皇帝家となってからは、彼の子孫たちはこのルドルフ1世を一族の始祖として、その後のルドルフの伝説的な大勝利や数々のエピソードを神話化し、永遠の繁栄と栄光を当家に導く守り神として崇めていきます。

さてここでもう一つ意外な事実があります。思いもかけずドイツ王になったルドルフに対して、真っ先に彼に臣下の礼を示して従ったのが、ルドルフに国王選出の知らせを届けに来た親友であるニュルンベルク伯フリードリッヒ(1220?~1297)でした。

それはごく自然に親友として、また信義に厚い騎士道精神から彼らの間で必然的なものだったと思われますが、彼は当時はルドルフとさして変わらない程度の規模の貴族でしかなかったホーエンツォレルン家と呼ばれる一族の当主でした。しかしこの一族はやがて400年後の17世紀半ばに「プロイセン王国」を興し、その王家となって後にオーストリア・ハプスブルク家と覇を競う争いを続ける事になるのです。(かつての親友同士の子孫が数百年後に仇敵になってしまうとは、歴史とは本当に残酷なものです。)

次回に続きます。
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