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マルヒフェルトの戦い ・ 貧乏伯爵の逆転勝利

みなさんこんにちは。

選帝侯たちの勝手な思惑で、事前に何の打診も無くドイツ王に決定されたルドルフ・フォン・ハプスブルクが、あたふたと即位して慣れない玉座の上で今後の事をぼんやり考えていた頃、彼のドイツ王即位を腹わたの煮え繰り返る思いで見ていた人物がいました。それは選帝侯の一人でボヘミア王であったオタカル2世です。

premysl-otakar-II21.jpg

上が当時のボヘミア王オタカル2世のイラストです。(1230?~1278)彼はボヘミア(現チェコ) のプシェミスル朝の王で、巧みな政治力と軍事力で周辺地域を支配下に収め、一時はボヘミア本国の他、オーストリア全域と、ハンガリーやポーランドの一部を領有する大勢力となり、当時の帝国最大の実力者でした。

Bohemia-ottokar2.jpg

上が当時のオタカル2世の支配領域です。

彼は上で述べた様に非常に強力な王でした。そのため当然の事ながら次のドイツ王すなわち神聖ローマ皇帝には自分こそがふさわしいと自認していたのです。しかし彼がこの様な強い力をもっていたからこそ、強力な王を出したくない他の選帝侯たちから避けられ、王位は彼の元から離れていってしまったのでした。

オタカルは新たなドイツ王としてルドルフが決定した事に非常に腹を立て、その決定を下した選帝侯たちよりも、当のルドルフ本人にその怒りの矛先を向けていきます。(ルドルフにとっては大迷惑だったでしょうね。彼もなりたくて王位に付いたのではないのですから。)

「あの貧乏伯爵のルドルフめ!憎んでも飽きたらぬわ!こうなればどうするか見ておれ。」

オタカルは新たなドイツ王に即位したルドルフに対して、帝国諸侯の慣例である臣下の礼の証として召集される儀式も無視して参列せず、公然とルドルフへの対決姿勢をあらわにします。「自分はお前など絶対に王として認めないぞ。」というわけです。

彼がこれほどまでにルドルフに対して敵対心をあらわにしたのにはもちろん理由があります。つまりオタカルとルドルフではそもそも身分的な「格」が違うのです。オタカルは一国すなわちボヘミアの国王であり、先に述べた様にポーランドからアドリア海に至る広大な領地を保有し、そこから上がる収入も帝国一で、その財力を背景にいつでも数万の軍勢を動員出来る「金持ち王」でした。それに引き換えルドルフの方は前回も述べた様に、スイスの山奥の辺境の「一伯爵」に過ぎず、領地もオタカルの20分の1程度しかありませんでした。

一国の王であり、帝国最大の実力者である自分が、一伯爵上がりの田舎者にひざを屈して臣下の礼を取るなど、彼のプライドが断じて許せなかったのです。

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一方思わぬ事からドイツ王に即位したルドルフ(上の彫刻の人です。)の方は、その驚きからもじきに醒め、自らに課せられた運命を受け入れ「王」として帝国諸侯の上に君臨する事を決意します。その手始めとして彼はまず、自分に臣下の礼を取った諸侯以外で儀式に参列しなかったオタカル2世はじめ一部の者をリストアップし、その者たちに3度の機会を与えて自分に会いに来るよう招換します。(これはプライドの高いオタカルを刺激しないよう他の諸侯と合わせて勧告したものと思われます。) 

しかし他の一部の諸侯も皆ルドルフに従ったのに、結局オタカルは3回目の勧告も無視して最後までルドルフへの臣従を拒否しました。ここに至ってルドルフはドイツ王として最初の大なたを振るいます。彼はオタカルに対し、「帝国アハト令」を宣告したのです。このアハト令とはゲルマン古来から伝わるもので、言わば帝国諸侯としての一切の権利を剥奪し、帝国から追放するというものです。もちろん地位も領地も財産も全てです。

このルドルフの宣告によって両者の関係は修復不可能となってしまいますが、実はこれこそがルドルフの狙いでした。これによって彼は、「帝国への反逆者」オタカル2世を討伐する大義名分を得ることが出来たのです。

「あの様な性格の男では自分に従う事などあるまい。ならば王として力で駆逐するより他に道は無い。」

彼はオタカルの人となりを冷静に分析し、周到に時間をかけてその時を待っていたのでした。さらに彼はこの時、他の帝国諸侯たちから自分が王としての実力を試されている事を良く自覚していました。


1278年8月、ついに両者は帝国の支配権を巡り、オーストリアの地で激突します。「マルヒフェルトの戦い」の始まりです。両軍の戦力はルドルフ1世率いる帝国軍3万に対し、オタカル2世率いるボヘミア軍2万5千でした。

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兵力はハンガリー王と手を結んだルドルフの帝国軍が上回っていましたが、オタカル王のボヘミア軍も強力で、当初は帝国軍が押され気味の激戦でした。しかしここでルドルフが事前に戦場の森や丘の各所に配置した数十騎単位の伏兵が大きな威力を発揮します。突如現れた伏兵の攻撃にボヘミア軍は大混乱に陥り、さらにハンガリー軍による側面攻撃も相まってやがてボヘミア軍は総崩れとなって壊滅、総大将のオタカル2世もこの戦いで戦死してしまいました。戦いは「貧乏伯爵」ルドルフ1世の逆転大勝利に終わったのです。

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上はマルヒフェルトの戦いの勝利者たちであるドイツ王ルドルフ1世と、同盟者として供に戦ったハンガリー王ラースロー4世を描いた19世紀の絵です。(1262~1290)ルドルフはこの時すでに58歳でしたがラースローはこの時なんとまだ16歳の少年でした。恐らくハンガリー軍の実際の戦闘の指揮は、ルドルフと綿密に打ち合わせた側近の将軍たちによって行われたのでしょう。

この戦いの勝利によってルドルフはオタカルから取り上げたオーストリアとその周辺の地域を、ハプスブルク家の所領とする事に成功し、ハプスブルク家は一躍帝国有数の権門へと大きく勢力を拡大します。そしてこの時初めてハプスブルク家とオーストリアはつながりを持つ事になったのです。

ルドルフのこの勝利は、彼をドイツ王に選出した選帝侯たちをはじめ、他の帝国諸侯たちを大いに驚かせました。それだけではありません。彼らはこのルドルフという男を完全に甘く見ていました。つまり金も力もあまり無い、平凡な三流貴族に過ぎないと思っていたはずが、やがて彼らはそれが大きな間違いであった事を思い知らされます。なぜならこの「貧乏伯爵」はひとたびドイツ王となると、意外なしたたかさと巧みな政治力を発揮して王権の強化に乗り出していったからです。

それにルドルフは人間的な魅力にもあふれた人物でした。頭脳明晰で忍耐強く、人情細やかで世情に良く通じ、とても人望がありました。田舎貴族出身の彼に、帝国中の多くの諸侯が従い、先のマルヒフェルトの戦いでは3万もの軍勢がルドルフの下に集結したのも、彼の人柄に惹かれたからという諸侯も少なくなかったのです。

しかし、ルドルフが君主として優れた素質を持っているという事は、選帝侯たちをはじめ、大方の帝国諸侯にとって思いもかけない厄介な問題でした。優れた王、強大な皇帝、それは彼らが最も「望まない」ものであったからです。やがて彼らはルドルフの足を引っ張るため、あの手この手で邪魔だてを図り、ルドルフはかつての歴代皇帝たちと同じ様に、彼らとの勢力バランスと利害調整という複雑な心理的消耗戦に悩まされていく事になります。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
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