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幻の英雄ウイリアム・テル ・ スイス独立戦争の始まり

みなさんこんにちは。

1278年のマルヒフェルトの戦いで競争相手であるボヘミア王オタカル2世を打ち破ったルドルフ1世は、その後どうしていたのでしょうか? 実は彼は戦いに勝利したからといって、すぐに強大な王権を手にしたわけではありませんでした。いやむしろこれによって彼は一層難しい帝国運営の舵取りをせざるを得ない状況になっていったといっても過言ではないでしょう。

なぜならオタカル2世を破ったとしても、帝国内には7人の選帝侯をはじめ、いつ彼に歯向かうか分からない無数の帝国諸侯たちがいたからです。そこでルドルフは実に臆病なほど慎重に事を運んで行く様になります。例えばルドルフに負けたオタカル王は戦死していましたが、彼の王家であるプシェミスル家はその幼い息子ヴァーツラフを後継者としてボヘミアに健在で、将来父の仇を打つために彼を脅かすかも知れず、そのためルドルフはボヘミア王家の力を削ぐため、本領のボヘミアと周辺の一部を除き、オタカル2世が手に入れたオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンなどを接収し、これらを全てハプスブルク家の所領としました。

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上がオタカルの子ヴァーツラフ2世です。(1271~1305)幸いヴァーツラフ2世は父の死の時は幼く、さらに彼はボヘミア王となったその後の関心を背後の隣国ポーランドやハンガリーに向けたので、ルドルフの心配は杞憂に終わりましたが、ルドルフはボヘミア王家から没収したこれらの領地をハプスブルク家領とするために帝国諸侯に慎重に根回しをし、それらの了承を得るまで4年もかかってやっとオーストリアを息子アルブレヒトらに与えています。

ともあれこれでハプスブルク家は元の領地の10倍ほどになるオーストリアを手に入れ、この時から第1次大戦の帝国崩壊までの630年以上に亘って中央ヨーロッパに君臨するオーストリア・ハプスブルク家がここに誕生したのです。

さらにルドルフは、歴代皇帝たちの失敗の原因であったイタリア政策も、その方針を転換します。その方針とは単純なもので、つまり「イタリアには手を出さない。」という事です。イタリアに目を向ければローマ教皇との対立を招く事になり、果てしない教皇との争いになります。そのためルドルフはドイツ王でありながら、1度もローマには行かず、そのため彼は教皇から戴冠していないため、正式には「神聖ローマ皇帝」にはなっていません。(これは大当たりでした。実際ルドルフの在位中、教皇は一貫してルドルフを支持し、これが帝国諸侯たちへのけん制にもなったからです。)

Die_deutschen_Kaiser_Rudolf_von_Habsburg.jpg

上は甲冑姿のルドルフ1世です。(年号はドイツ王としての在位期間です。)ルドルフが皇帝として戴冠しなかった理由は定かではありませんが、恐らく彼は自分自身の役割を良く理解していたからではないかと思われます。つまり彼は、神聖ローマ帝国におけるドイツ王すなわち皇帝というものの存在がいかに帝国諸侯の思惑に振り回される脆弱なものであるかを身をもって経験し、ここで諸侯と対立してまで無理に王権を強化するよりも、自分の代においてはまずハプスブルク家の勢力拡大の基礎を築き、その後の事は子孫たちに委ね、「いつか栄光の日がわが家名にあらん事を。」と願ったのかも知れません。

さてその賢明なルドルフ1世が1291年に73歳で亡くなると、次の王位にはその子アルブレヒトが継承するのが当然なのですが、このアルブレヒトは父ルドルフの血を受け継いだ英邁かつ有能な君主でした。さらにルドルフが意外にしたたかに王位を維持して勢力を拡大させた事に慌てた選帝侯たちは、ハプスブルク家のこれ以上の勢力拡大を嫌い、次の王位をこれまたライン中部の辺境伯ナッサウ家の当主アドルフに与えてしまいます。

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上がナッサウ伯アドルフです。(1250~1298)彼は選帝侯の支持を得て正式に神聖ローマ皇帝として戴冠しましたが、帝国諸侯が最も嫌う皇帝権力の強化を図ったために結局廃位され、さらにその後ハプスブルク家のアルブレヒトとの戦いにも敗れて戦死してしまいました。ちなみに彼の一族ナッサウ家はその後ドイツ貴族の家系として絶える事無く続き、現在のルクセンブルク大公家は彼の子孫に当たるそうです。(下が子孫である現ルクセンブルク大公アンリ殿下です。)

さて先帝アドルフ1世の「裏切り」によって彼を廃位した選帝侯たちは、無用な混乱と争いを避けるため、結局王位をハプスブルク家のアルブレヒトに与え、彼はアルブレヒト1世として即位します。

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上がハプスブルク家2代目のドイツ王アルブレヒト1世です。(1250~1308)彼は先に述べた様に、父ルドルフに似て王としては大変有能でした。しかし彼には父ルドルフの様に他人の立場や心を汲んで事に接するという器量が欠けていた様で、父ルドルフの死後相続による一族への領地分配でトラブルとなり、甥のヨハンによって1308年に暗殺されてしまいました。

実はこのアルブレヒト1世ですが、こうした史実よりもある有名なフィクションの世界で有名です。それは19世紀ドイツの作家シラーが書いた戯曲「ウィリアム・テル」の中に登場する悪役の王のモデルなのです。

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上が戯曲「ウィリアム・テル」の作者フリードリッヒ・フォン・シラーです。(1759~1805)このウィリアム・テルの物語自体は彼の創作ではなく、スイスに古くから伝わる伝説を戯曲化したもので、弓の名手であったテルが、幼い息子の頭の上に載せた林檎を矢で射落とす場面が良く知られていますね。しかし原作はもちろんそれだけではなく、主人公ウィリアム・テルを通してスイスの独立を描いた長大なものです。またイタリアの有名な作曲家ロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル 序曲」はきっと誰もが聞いた事のある勇ましい曲でしょう。

この物語は要約すると、ハプスブルク家の支配地であったスイスで、悪い王(アルブレヒト1世)から遣わされた悪い代官のゲスラー(いかにも悪者そうな名前ですね。笑)の圧政に立ち向かう弓の名手ウィリアム・テルの戦いと冒険の物語で、最後は悪代官ゲスラーと悪王アルブレヒトを倒してスイスの人々に勝利と自由をもたらすというストーリーです。

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上はスイスの各地にあるウイリアム・テルの銅像です。もちろんこの人物は実在の人物ではなく、いつしか作られていった伝説上の人物ですが、本国スイスの人々は彼の事が大好きで、今でもスイスの英雄として扱われています。

なぜアルブレヒト1世はこの物語で悪王としてその名を残す事になってしまったのでしょうか?それは彼の対スイス政策の失敗に端を発しています。元々スイスはハプスブルク家の所領だったのですが、彼の父ルドルフが王の時代までは、周辺のスイス人との関係に慎重に気を配り、ルドルフの人柄も相まってその関係も良好で上手くやっていたのです。しかしアルブレヒトが王になると、彼はスイスをハプスブルク家の完全統治下に置く事を狙い、家臣を派遣して強権統治を行う様になります。(上で悪代官とされているゲスラーという人物も、チューリッヒ方面の行政官として当時アルブレヒト王に仕えるハプスブルク家の家臣の中に実在しており、後に爵位を得ています。)

これは独立心の強いスイス人たちの怒りを買い、ハプスブルク城に近い3つの州が同盟して「反ハプスブルク」の旗を揚げ、やがてそれが拡大していく事になったのです。このスイスとハプスブルク家の戦いはやがてスイス独立戦争に発展しますが、このウィリアム・テルの物語はハプスブルク家の圧政に立ち向かったスイスの人々の誇りであり、そのために当時の王であったアルブレヒト1世が、スイス方面行政担当の家臣ゲスラーとともに「悪役」としてキャスティングされてしまったのでしょう。

次回に続きます。
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