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スイス農民軍の勝利 ・ ハプスブルク家の敗退と帝位喪失

みなさんこんにちは。

ルドルフ1世によってオーストリアを手に入れたハプスブルク家は、その後帝国有数の名家の仲間入りを果たしましたが、もともとの根拠地であったスイスにおいては、ルドルフの後を継いでドイツ王となったアルブレヒト1世の失政も重なり、一族は長年苦労して広げたスイスの地盤を失いつつありました。

スイスでは、前回お話した「ウィリアム・テル」の物語に代表される様にハプスブルク家への反乱が相次ぎ、これが当家の支配からの独立を目指す長い戦いに発展していきます。その最初のきっかけが、1308年のアルブレヒト1世の暗殺でしたが、彼は王妃エリザベートとの間に7男5女12人もの子に恵まれ、後の当家繁栄の原動力ともいうべき「子だくさん」でした。

ハプスブルク家の対スイス政策はアルブレヒト1世の死後、この息子たちによって続行されていくのですが、しかし彼の死によって選帝侯たちは次の国王候補からハプスブルク家を除外し、帝位はルクセンブルク伯ハインリッヒ7世に奪われてしまいました。

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上が新ドイツ王ハインリッヒ7世です。(1275~1313)彼は強い君主を出したくない選帝侯たちによって担ぎ出された地方貴族に過ぎませんでしたが、いざ王位に付くと彼らの目論見に反して王権の強化に乗り出し、家系の絶えたボヘミア王家に娘を嫁がせてボヘミア領を手に入れ、イタリアにも南下の野心を見せるなどの姿勢を見せます。しかし彼のこうした政策は選帝侯や当時フランスの影響下にあったローマ教皇の反発を買い、1313年彼は謎の急死を遂げます。(これは歴史家の間では「毒殺」が疑われていますが、真偽は定かではありません。)

帝位はめまぐるしく変わります。ハインリッヒ7世の死によって、選帝侯たちは次の国王にバイエルン公であるヴィッテルスバッハ家のルートヴィッヒ4世を推戴しますが、一方帝国のもう一つの主役ハプスブルク家では、アルブレヒト1世の死後、その子フリードリッヒ1世が「オーストリア公」としてその当主となり、弟レオポルトと協力してこれに反対し、「対立王」として立候補。ハプスブルク家による帝位奪還に動き出します。

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上が「オーストリア公」フリードリッヒ1世です。(1286~1330)彼は帝位奪還のため、ライバルのフリードリッヒ4世との戦いに突入しますが、同時にスイス政策も強行に推し進め、これがスイス人の「反ハプスブルク」の運動の火に油を注ぐ結果になってしまいます。

帝国内で権力者たちが帝位を争っていた頃、スイスではハプスブルク家への反発が日増しに増大していました。すでにフリードリッヒの父アルブレヒト1世の時代の1291年に、シュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンの3州の農民たちが、ハプスブルク家の支配打倒とスイス独立のため「誓約同盟」を結成してこれと戦う事を誓います。

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上がスイス独立同盟の中心であるシュヴィーツ州の現在の姿とその位置です。(人口は州全体で13万ほど。)この州の名「シュヴィーツ」が、後の同国の国名「スイス」の語源になった(らしい)と言われていますね。

スイス独立派は国王選挙にも介入し、当然バイエルン公ルートヴィッヒ4世を支持してハプスブルク家の足を引っ張ります。業を煮やしたオーストリア公フリードリッヒ1世は1313年、弟レオポルトを総司令官としておよそ9千の軍勢から成る討伐軍を差し向けました。それに対し、迎え撃つスイス農民軍はシュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンの3州を合わせてもわずか1300余りに過ぎませんでした。

兵力は7対1で圧倒的にハプスブルク軍が優勢です。司令官レオポルト公は一気にスイス独立派を殲滅すべくスイス領内に侵攻しました。そして軍勢がスイス独立派の本拠地シュヴィーツ州にあるモルガルテン山の近くの狭い谷底の道に差し掛かったその時、待ち構えていたスイス農民軍が一斉に山の上から石や積んであった丸太を投げ落とし、さらに身軽な農民兵の繰り出す長槍攻撃に、重さ40キロの鋼鉄の甲冑姿の騎士たちはろくに反撃も出来ず、大混乱に陥ったハプスブルク軍は2千の戦死者を出して大敗し、司令官レオポルト公は命からがらオーストリアに撤退してしまいました。(モルガルテンの戦い)

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上がモルガルテンの戦いを描いた絵と、現在のモルガルテン山の様子です。(写真で見る限り、それほど高い山ではない様です。せいぜい標高5~600メートルほどでしょうか。のどかで美しい風景ですね。きっと戦いのあった700年前とほとんど変わっていないのだと思います。)

この勝利によってスイス独立派は勢いを増し、それまでハプスブルク家の報復を恐れて様子を見ていた他の州も次々に同盟に参加、その勢力は最初の3州から8州へ、やがて13州へと拡大していきました。(といってもこの一度の勝利でスイスの独立がなったわけではなく、長い戦いの最初の勝利に過ぎません。それにハプスブルク家もスイスの所領はその後も維持し続けました。)一方敗れたハプスブルク家は敗北が相次ぎます。長期化していた帝位争いで、当主フリードリッヒ1世が1322年のミュールドルフの戦いでバイエルン公ルートヴィッヒ4世に敗れ、味方に付いた多くの帝国諸侯らと供に捕虜になってしまったのです。

その後1325年にヴィッテルスバッハ家とハプスブルク家との間で妥協が成立し、(勝ったルートヴィッヒ側も長い帝位争いで疲弊していました。)神聖ローマ皇帝位とイタリア王位はルートヴィッヒ4世が継承し、フリードリッヒ1世はドイツ王となる事で和睦が成立しました。(彼は「ドイツ王」としてはフリードリッヒ3世となります。)

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上が新皇帝ルートヴィッヒ4世です。(1282~1347)彼の帝位確定で帝国内は束の間の安定が訪れますが、彼の死後、帝位は再び変転します。選帝侯たちは次の王としてルクセンブルク家のカール4世を選出し、この時もハプスブルク家は落選してしまいます。そしてこれ以後当家は130年以上に亘って神聖ローマ帝国の帝位候補からはずされ続け、ルドルフ1世、アルブレヒト1世と2代続いたハプスブルク家による帝位世襲は長い中断を余儀なくされます。

この時のハプスブルク家の当主はフリードリッヒ3世の弟で、オーストリア公アルブレヒト2世という人物でしたが、彼は兄たちと違って帝位奪還は事実上諦め、祖父ルドルフ1世の方針を踏襲し、長い帝位争いとスイスの反乱で傾いたハプスブルク家の力を取り戻すため、極力戦争を避けてひたすら内政に没頭し、力を蓄えようとします。

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上がオーストリア公アルブレヒト2世です。(1298~1358)彼は「賢公」とも呼ばれる名君で、父1世がスイスで失敗した教訓からオーストリアにおける内政の充実を図り、領民からも大変慕われました。彼がこの時期に基礎を固めた事で、オーストリア・ハプスブルク家はこの地に深く根付く事が出来たのです。

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そして上がこの時期の神聖ローマ帝国の領域図です。3つの色で表されているのはこの時期に帝位を争った各家の領地で、オレンジ色がハプスブルク家領、紫色がルクセンブルク家領、緑色がヴィッテルスバッハ家領になります。各家の領地が「飛び地」の様に散らばっているのは、当時諸侯の間で盛んに行われた政略結婚による結果です。

次回に続きます。
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