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金印勅書 ・ 権力を売った文人皇帝カール4世

みなさんこんにちは。

ハプスブルク家がスイスの民衆と長い戦いを繰り広げ、苦戦を強いられていた頃、神聖ローマ帝国の皇帝はそのハプスブルク家の当主ではなく、ルクセンブルク家の当主カール4世という人物でした。

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上が当時の神聖ローマ皇帝カール4世です。(1316~1378)彼は先に述べた通り、現在のルクセンブルク大公国のある一帯を所領としていた地方貴族ルクセンブルク家出身の皇帝で、「強大ではない」ゆえに選帝侯たちから選出された典型でした。

しかしこの皇帝は、この神聖ローマ帝国という愛すべき国家(あくまで自分が個人的に好きなだけです。笑)の歴史において、ターニングポイントともいうべき重要な役割を果たした事で、忘れるべからざる人物でもあります。ここでその事についてお話して置きたいと思います。

カール4世は1316年、ボヘミア王国(現チェコ共和国)の首都プラハで当時のボヘミア王であったヨハン・フォン・ルクセンブルクとボヘミア王女エリシュカの長男として生まれました。本来ネーデルラントの南を所領とするルクセンブルク家とボヘミアとはなんらつながりは無いのですが、彼の祖父に当たる神聖ローマ皇帝ハインリッヒ7世が、将来のボヘミア王家の断絶を見越して娘をボヘミア王家に嫁がせ、事実上ボヘミアを乗っ取った事から当家によるボヘミア支配が始まったのです。

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上は当時のボヘミア王国の領域です。

彼はその後3歳にして親元を引き離され、さらに7歳から14歳まで叔母マリー・ド・リュクサンブールの嫁ぎ先であるフランス王家に預けられてそこで養育されました。彼は生まれた時は叔父や外祖父の名である「ヴァーツラフ」と名づけられましたが、このフランス滞在時代に叔母の夫で、育ての父であった当時のフランス王シャルル4世の名を取って「シャルル」(ドイツ語でカール、チェコ語でカレル)と改名しています。

シャルル4世夫妻はカールを大切に養育し、手厚い高等教育と帝王学を身に付けさせ、カールは繊細で教養高い若者に成長しましたが、これが後に彼が神聖ローマ皇帝となった時に大きく役立ち、彼は育ての父シャルル4世に対して終生感謝していたそうです。

時は流れて1333年、17歳になった彼はボヘミアに帰国し、父ヨハンと再会して直に帝王学と統治を学び、さらに晩年失明した父に代わって1340年には摂政としてほぼ事実上ボヘミアの王となります。そしてその後の帝国内の帝位争いの最中、時のローマ教皇らの介入と選帝侯らの思惑によって、1347年ドイツ王に選出されました。

1355年にカール4世は恒例のイタリア遠征を行い、ローマで教皇から神聖ローマ皇帝として戴冠しましたが、その帰り道の北イタリアにおいて、彼はこの辺り一帯の都市群に貨幣の鋳造、関税の徴収といった本来なら皇帝の持つ特権を次々に与え、その見返りにこれらの都市から莫大な上納金を納めさせる事に成功します。(つまり特権を切り売りしたのです。この大金は、後に彼の統治資金として大いに役立った様です。)

カール4世が歴代の神聖ローマ皇帝たちと違う点は、母親の血を受け継いで半分チェコ人であったという事です。彼は片時もそれを忘れず、そのため彼の在位中、帝国の都はボヘミアの首都プラハに置かれ、ヨーロッパ中から富の集まる文化の薫り高い都となりました。

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上はボヘミアの首都プラハの現在の街並みです。(人口約120万)遠方に見える巨大かつ壮麗な宮殿は街を見下ろすプラハ城です。ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココといった各時代の建築様式で建て増しされているのがお分かり頂けると思います。

高い教養の持ち主であったカール4世は、この都においてドイツ語圏で初めての大学(カレル大学)を造ってプラハを学問の都とし、プラハの中央を流れるモルダウ川にはこれもプラハで初めての頑丈な石造りの橋(カレル橋)を築いて交通の利便を図ると同時に不必要なまでの彫刻で飾り立てるなど、他にも数々のいわゆる「公共事業」によってプラハを皇帝の都にふさわしい街に造り替えていきます。(この時に、皇帝が恥もいとわずに北イタリア都市から得た大金が大いに役立ちました。)

こうしてプラハには多くの知識人や文化人が集まり、彼らによって知識と文化の素養が蓄えられ、さらにプラハに行けば「仕事がある」事から帝国内外から集まった人々によって人口も増え、その人々を目当てに物を売る商人たちが財を成し、その徴税でカール4世の宮廷にはうなるほど金が貯まっていきました。

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上はプラハ郊外にある皇帝カール4世の建てた「カレルシュテイン城」です。このお城は王家の財宝を保管するために築城されたもので、その堅牢さと優美な外観が人気で訪れる観光客が後を絶ちません。さらにカール4世は自己宣伝にも余念がなかった様で、彼の造ったものにはほとんど自身の名「カレル」と名付けています。

さて、ここまで話すとこのカール4世という皇帝は大変有能な君主である事が分かりますが、本来神聖ローマ帝国の皇帝を選出する選帝侯たちはこの様な人物を望まないはずです。彼らにとって皇帝とは、自分たちの利益の為に動く何の力も無い「飾り物」であれば十分であり、皇帝が彼らの既得権益に手を出せば直ちに「廃位」してしまうからです。しかしカール4世は亡くなるまで皇帝として30年以上も君臨し続けました。ではどうやって彼は選帝侯たちを手なずけたのでしょうか?

そこで登場するのが「金印勅書」です。これは簡単に言えば、神聖ローマ帝国皇帝を選出する場合の選挙基準と、その皇帝の選出権を持つ7人の選帝侯たちの帝国内における権利と身分を明文化した全31か条に及ぶもので、下の様な皇帝の黄金の印が押された事からこの名があります。

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上が神聖ローマ皇帝の金印、つまり玉璽、ハンコです。(わが国の天皇陛下が公文書に目を通され、ご署名された後に押される玉璽も黄金製で3.5kgもある巨大なものですね。)

この金印勅書の主な内容は

1 選帝侯はマインツ、トリーア、ケルンの三大司教と、ザクセン公、ボヘミア王、ブランデンブルク伯、プファルツ伯の7人とする事。

1 選帝侯は帝国諸侯の最上位を占め、領内における完全な裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権などを持つ事。

1 皇帝選出の選挙結果はローマ教皇の承認を必要としない事。

1 皇帝選出は単純過半数で行い、その結果に従わない選帝侯は選帝侯位を剥奪される事。

1 帝国諸侯間の同盟と都市の同盟を禁止する事。

1 選出されたドイツ王はその時点で自動的に神聖ローマ皇帝となる事。


その他となっており、特にローマ教皇の介入を阻止した条項と、選挙結果に従わない者は選帝侯の位を失うという条項が功を奏し、それまで散々繰り返されてきたこれらの者の都合によって別の王を立てるいわゆる「対立王」は不可能となり、カール4世以後、帝国はその滅亡まで一人の皇帝が立つことになります。(それが当たり前なんですけどね。笑)

カール4世がこれほどまでに選帝侯たちに有利な条件を定めたのには理由があります。つまりこれだけの特権を与えてやるのだから、彼の王家ルクセンブルク家を神聖ローマ帝国の「世襲の王家」として認めよというわけです。皇帝といってもどうせ選帝侯はじめ帝国諸侯を従える力などありません。それはこれまでの皇帝たちを見れば分かる事です。しかしそんな皇帝にもたった一つですが、何にも代え難い強力な「武器」がありました。それは神聖ローマ皇帝としての「権威」です。

この皇帝の権威というものは、人々の精神に絶大な影響力を持っていました。人々を支配する力は、軍事力や財力といった物理的なものだけではありません。人を精神面で支配する権威も必要です。そしてこの権威の力こそ、皇帝カール4世が目を付けた力の源でした。彼は自らの王家ルクセンブルク家を、他の諸侯とは違う地上で最も格式の高い永遠不滅の権威を持つ世襲の皇帝家にする事を望んだのです。そのためにこの金印勅書は必要不可欠な「道具」でした。

次回に続きます。
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