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皇帝の誤算 ・ お騒がせ大公のインチキ特許状

みなさんこんにちは。

神聖ローマ皇帝カール4世が金印勅書を定め、モルダウ川のほとりに「黄金のプラハ」を築いていた頃、南のオーストリアでは、新たにハプスブルク家の当主となった一人の若者が大きな不満と反感を皇帝に対して抱いていました。その若者の名をオーストリア公ルドルフ4世といいます。

Rudolf_IV.jpg

上が当時のハプスブルク家当主にしてオーストリア公ルドルフ4世です。(1339~1365)彼はハプスブルク家の始祖ルドルフ1世のひ孫であり、また皇帝カール4世の娘婿でもありました。

この彼がなぜ皇帝に大きな不満を抱いたのかというと、前回お話したカール4世の「金印勅書」に定められた選帝侯の中に、ハプスブルク家の名が無かったからです。

「曽祖父ルドルフ1世、祖父アルブレヒト1世、伯父フリードリッヒ3世と、3代続けてドイツ王を出し、今やわがハプスブルク家は帝国有数の名家であり、当然選帝侯となるにふさわしいはずなのに、なぜわが一門が選帝侯から外されているのか?全く気に入らん!」


ルドルフ4世は舅である皇帝カール4世に対し反旗を翻します。といっても「武力で」ではありません。彼は思いもよらぬやり方で皇帝に挑みました。1359年、ルドルフは皇帝の発した金印勅書の内容に反発し、帝国中に自らを全ての帝国諸侯の最上位にして別格のオーストリア「大公」であると宣言し、その地位は選帝侯と同格であり、当然選帝侯と同じ権利を持つのだ。と主張したのです。

ここで注意すべきなのは彼が名乗った「大公」という位です。実はそれまで歴史上この様な階級は誰も見た事も聞いた事も無いものでした。この時初めて彼が勝手に創ったのです。つまりルドルフは、自分は皇帝や王ではもちろん無いが、全ての帝国諸侯の最上位すなわち公爵の上である「大公爵」なのだというのです。

事の次第はプラハの皇帝カール4世の元に報告されましたが、武より文の人であった皇帝は、相手が娘婿である事から穏便に済ませようと、ルドルフに対して「貴公の主張を裏付ける証拠文書を提出されよ。」と正論主義で応対しました。

そこでルドルフ4世は、奇怪な7つの文書を提出してこれに答えます。この7つの文書とは、5通の特許状と2通の手紙で、最初の5通の特許状とは、5人の歴代皇帝がオーストリアとハプスブルク家にこれだけの特権を与えた云々というもので、他の2通の手紙とはそれを裏付けるための証拠というものでした。

実はこの文書、全てルドルフの偽造したでたらめのインチキ文書でした。なぜなら5通の特許状とやらに添えられていた2通の手紙の差出人の名は、なんと「ユリウス・カエサル」だったからです。それを聞いた皇帝カール4世は最初は呆れましたが、(多分失笑していた事でしょうね。)後から不気味に思えてきました。

「どうしてルドルフはこんな誰にも分かる大嘘をついたのだろうか?」

皇帝は娘婿の真意を計りかねました。しかしやがて皇帝はこれがルドルフの断固たる決意を表す挑発だと気づきました。ルドルフは皇帝カール4世が自分からは争いを仕掛けない人物である事を見抜いていました。皇帝がそのまま何もしなければ、彼の主張を認めた事になるからそれも良し。明らかな偽文書を提出した事を理由として、皇帝がルドルフを罰するつもりならそれも良し。ルドルフは従うつもりなどありませんから当然戦いになるでしょう。

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上が当時の神聖ローマ皇帝カール4世です。

「これは自分を戦いの場に引きずり出すための作戦だ。」

皇帝は結局その様に結論付け、ルドルフの挑戦を受け流すと問題をうやむやにしてしまいます。皇帝にとって幸いな事に、騒動の張本人ルドルフ4世は1365年にまだ26歳という若さで亡くなったので、事件はとんだ結末を迎えますが、ルドルフの主張はいつしか既成事実として認められ、ハプスブルク家は帝国唯一の「大公」としてその地位と格式を有する様になります。(これは後にハプスブルク家の帝位世襲に大きく寄与します。)

このルドルフ4世「大公殿下」は、他にも根拠地ウィーンに壮麗なシュテファン大聖堂やウィーン大学を建設した事から「建設公」の名でも呼ばれています。とにかく一度思い立ったら何事も止まらない性格だった様で、ある作家は彼を「もう少し長生きしていたら、天下を取るか、または奈落の底に落ちるかのどちらかであっただろう。」と評しています。

450px-Stephansdom_Wien_01.jpg

上がルドルフ4世の命により建設が始まったシュテファン大聖堂です。塔の高さは107メートルもあります。また外壁の表面が黒ずんでいるのは、第2次大戦中の戦災による延焼によるものだそうです。

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そしてこれもルドルフ公が造ったウィーン大学です。これは明らかに皇帝カール4世がプラハに造ったカレル大学に対抗するものでした。

さて、娘婿の思わぬ挑戦に手を焼かされた皇帝カール4世でしたが、その後も彼の治世は揺らぐ事無く続き、その間に彼はひたすらルクセンブルク家の権威と家門の拡大に努め、少なくとも彼の在位中においてはルクセンブルク家の栄華は揺ぎ無いものに思われました。彼はそのために多額の資金が必要と知るや、当時商工業の発達で帝国内に興隆しつつあった豊富な資金力を持つ都市群を味方に付けるため、自ら定めた金印勅書の内容の一部である「都市同盟の禁止」という条項を破ってまでこれらに同盟の許可を与えてしまいます。(この時に同盟の許可を貰ったのが有名な「ハンザ同盟」です。)

皇帝の勝手な行為に当然帝国諸侯からは非難の声が集まりましたが、カール4世は構わずそれを実行しました。一体何が彼をそこまで駆り立てたのでしょうか?それはひとえにルクセンブルク家による世襲王朝の確立のためでした。彼は子煩悩で特に後継者である長男ヴェンツェルを可愛がり、そのヴェンツェルに帝位を継がせる事が晩年の彼の願いでした。

しかし残念な事に、この長男は名君であった父には遠く及ばない凡庸な跡継ぎでした。1378年に皇帝カール4世が亡くなると、帝位はこのヴェンツェルが継承しますが、彼は帝国諸侯との対立を繰り返し、結局廃位されてしまいます。その後一代置いて、帝位はその弟ジギスムントに移りますが、厳格なカトリックであった彼は、そのカトリックを改革しようとした宗教家のヤン・フス(1369~1419)を処刑した事からボヘミア国民の強い反発を買い、その反乱鎮圧に明け暮れて亡くなります。

Pisanello_024b.jpg

上がルクセンブルク家最後となる皇帝ジギスムントです。(1368~1437)彼の失敗は宗教弾圧に走ってしまった事でした。そして、兄ヴェンツェル共々男子の子宝に恵まれなかった彼らの死によってルクセンブルク王家は断絶し、カール4世の夢は潰え去りました。そしてその遺領の多くは皮肉にも縁戚関係にあったハプスブルク家のものとなったのです。

次回に続きます。
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