史上最弱の皇帝フリードリッヒ3世 ・ 臆病、ドケチ、戦わない、驚異の世渡り術

みなさんこんにちは。

黄金のプラハを中心に、ボヘミアで束の間の華麗な文化の華を咲かせたカール4世のルクセンブルク王朝が、その後を継いだ2人の息子たちの失策と相次ぐ死によって断絶した後、選帝侯たちが次のドイツ王に選んだのはハプスブルク家のフリードリッヒ3世という人物でした。

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上が新たなドイツ王フリードリッヒ3世です。(1415~1493)彼はアルブレヒト1世以来、実に130年ぶりにハプスブルク家からドイツ王として正式に選出された当時25歳の若者でしたが、彼は歴代ハプスブルク家の人々の中でもとりわけユニークな事で知られています。しかしそれは良い意味でではなく、ほとんど悪い意味でという意味です。

実はこの人物、とにかく臆病で優柔不断なのです。その上陰気でせこくて外見もみすぼらしく、「ドケチ」と呼ばれるほど倹約家であったにもかかわらず、常に借金に負われていました。そのため彼はその頃からすでにそれらの悪評で周囲に知られ、蔑まれていました。しかしこの事が、彼にドイツ王即位という思いもかけない幸運を呼び込む事になります。

フリードリッヒのこの冴えない評判に選帝侯たちは飛び付きます。彼らがこの頼りない人物を次のドイツ王に選んだ理由は、例によって有能な王を出したくない事から「人畜無害」な小心者のフリードリッヒが最適だと考えたからです。

ここまで書くと、このフリードリッヒ3世が意志薄弱で無芸無能な男に思われてしまうでしょうが、そんな彼にもたった一つだけ、長所というか、取り得と呼べるものがありました。それは他人とは比較にならない「忍耐心」です。どんなに屈辱的で、惨めな思いをしてもひたすら耐え忍び、逆境にあっても情況が好転するまで何年でも待ち続ける。これこそが彼が生きていく上での武器としたものでした。(忍耐の人といえば、わが国には「鳴くまで待とうホトトギス」で誰もがご存知の徳川家康がいますね。しかし家康には勇気と決断力がありましたが、このフリードリッヒ3世にはそんな崇高なものはカケラもありませんでした。)

さらにこのフリードリッヒ3世という人物ですが、非常に強運(というより悪運が強い)の持ち主でもありました。というのは、先ほど彼がハプスブルク家で130年ぶりのドイツ王と書きましたが、実は彼より先に同じハプスブルク家からアルブレヒト2世という人物がドイツ王に選出されていたのです。しかしフリードリッヒと正反対で好戦的な彼は、即位から1年足らずのうちにオスマン帝国との戦いに従軍中赤痢にかかって病死したため、フリードリッヒの元に王位が転がり込んで来たのでした。

フリードリッヒ3世の悪運の強さはそれだけではありませんでした。彼は1452年、神聖ローマ皇帝として正式に戴冠するためにローマに赴き、教皇から帝冠を授かるとともに、当時一早く海洋王国として栄えつつあったポルトガルの王ドゥアルテ1世の王女エレオノーレとの結婚式を同時に行っています。そしてこの時エレオノーレは、実家のポルトガル王家が海上貿易で得た莫大な持参金を借金にあえぐハプスブルク家に持たらしてくれたのです。

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上が皇帝フリードリッヒ3世とポルトガル王女エレオノーレ(1436~1467)との結婚式を描いた絵です。この時ポルトガル王が王女を莫大な持参金付きで皇帝に嫁がせたのは、神聖ローマ帝国と同盟する事で背後のスペインを挟み撃ちでけん制する事が目的でした。(ものぐさなフリードリッヒもさすがにこの時だけは、人生の一大事という事で活発に動いていますね。)

しかしその翌年の1453年、全ヨーロッパを驚愕させる事件が起こります。はるか東のビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープルが、オスマン帝国のスルタン、メフメト2世率いる10万を越える大軍によって包囲され、一ヶ月の死闘の後ついに陥落、最後の皇帝コンスタンティヌス11世の戦死をもってビザンツ帝国が滅亡したのです。このビザンツ帝国は古代ローマ帝国の系譜を引き継ぐ正当な国家で、西ローマ帝国滅亡から千年もの長きに亘って生き続けて来たのですが、この時期すでに周囲はオスマン帝国に包囲され、その命運が尽きるのは時間の問題と広く知られていました。そして実際にそれが現実のものとなった時のヨーロッパの衝撃は凄まじいもので、いずれにしても、これによってヨーロッパ文明の源である「ローマ帝国」は完全に滅び去ってしまいました。

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上はコンスタンティノープル攻防戦を描いた中世の絵です。城壁を登る無数のオスマン軍に対し、ビザンツ軍が石などを投げ落としています。(これまでにも何度か当ブログで載せて来ましたが、中世の絵というのはルネサンス以降の写実的な絵画とは違う独特の表現が面白くて魅力的ですね。一見子供の絵の様ですが。笑)

このビザンツ帝国滅亡の知らせは、同じ「ローマ帝国」を名乗る神聖ローマ帝国にとりわけショックを与えました。なぜならキリスト教国家がイスラム教国家に滅ぼされたからです。「このままオスマン軍がヨーロッパまで攻め寄せてくるのではないか?」という恐怖感が選帝侯はじめ帝国諸侯の間に広がりますが、こういう時こそ諸侯をまとめ、なだめるべきである皇帝フリードリッヒはコンスタンティノープル陥落の知らせを聞いても「ああそう。」というだけで、のん気に宮廷の庭いじりをしていたそうです。

皇帝のこの体たらくには諸侯よりも身内のハプスブルク家から批判が集まり、フリードリッヒの弟であるオーストリア公アルブレヒト6世は兄の態度に呆れ果て、兄帝がウィーンを留守中にクーデターを起こし、皇后エレオノーレと幼い皇太子マクシミリアンをウィーンの宮殿内に幽閉してしまいました。

しかしこの時も、皇帝フリードリッヒ3世は幸運に恵まれます。皇帝は急遽ウィーンに戻りましたが妻子には会えず、それどころか弟から突きつけられた数々の屈辱的条件を認めさせられ、じっと耐え忍ぶのですが、弟アルブレヒト6世が制圧したウィーンであまりに強圧的支配をしたために市民の反感を買い、暗殺されてしまったからです。

状況は好転し、彼はウィーン市民と和睦して皇后と皇太子を取り戻す事が出来ました。その後も彼にはハンガリー王、ブルゴーニュ公と、とても彼が太刀打ち出来ない強大な敵が現れますが、その都度彼は戦いを避け、行方をくらまし、のらりくらりと逃げ回り、持ち前の忍耐と我慢で長期戦に持ち込んでいきます。すると不思議な事にこれらの強力な敵は、このまるで「ウナギ」の様にするりと掴まえ所の無いフリードリッヒ3世という人物に耐えかね、自滅するか、先に死ぬなどで彼の前から姿を消していくのです。

彼の徹底して戦いを避け、逃げ回り、わずかな家臣や護衛とともに山城に隠れてひたすらじっと耐え忍び、ほとぼりが醒めた頃に出てきて事後処理に当たるというやり方のあまりの手際の良さに、「この人物は凡庸を装った名君である。」などという見方までされるほどで、それが逆にこの人の魅力にすらなっていますが、これは完全な買い被りでしょうね。笑

しかしこの帝国史上最弱の頼りない皇帝が、それまでの歴代皇帝で最長となる、実に53年間もの間、帝位を維持し続けようとは、本人はもちろん誰も予想だにしなかった事でしょう。そして図らずもこの彼の長い在位期間中に、それまで各家を転々としていたハプスブルク家の帝位世襲が完成され、フリードリッヒ3世は気が付けば、その影の功労者となっていたのです。

次回に続きます。
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