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マクシミリアン1世 ・ 騎士の時代を終わらせた最後の騎士

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国史上最も頼りない皇帝フリードリッヒ3世でしたが、そんな彼にも自慢すべきものがありました。それは後継者である長男のマクシミリアンの存在です。

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上が後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世です。(1459~1519)彼は陰気で臆病な父よりも、ポルトガルから嫁いできた母である皇妃エレオノーレに似て明るく伸びやかな性格で、皇帝夫妻の期待を一身に背負って成長しますが、母エレオノーレは彼が8歳の時に亡くなってしまいます。

父帝フリードリッヒ3世は、前回もお話した様に並外れた忍耐心以外に取り得の無い小心者で、それが故に皇帝に選ばれた人物でした。それは当の本人自身が最も自覚していた事でしょうが、持って生まれた生来の性格というものは容易く変えられるものではありません。フリードリッヒは息子マクシミリアンが、自分に無い多くの長所を持っている事から、自分の数々の性格的欠点から果たせなかった本来の帝国のあるべき姿、「皇帝を頂点に全ての帝国諸侯が従い協力して帝国を運営していく」という夢を託していきます。

そのための準備として、1473年フリードリッヒ3世は隣国ブルゴーニュ公国のシャルル公に対し、彼の公女マリーと息子マクシミリアンの婚約を申し出ます。なぜこの時皇帝フリードリッヒがブルゴーニュ公国に目をつけたのかというと、それは当時このブルゴーニュ公国がヨーロッパ最高の「金持ち」であったからです。

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上が当時のブルゴーニュ公国の位置とその領域図です。このブルゴーニュ公国は、1363年にフランスのヴァロワ王家の分家の一族が樹立した国家で、優れた毛織物産業で隆盛を極め、イギリスから安値で輸入した羊毛で、高級衣料、壁掛け(タペストリー)絨毯などに加工してヨーロッパ全域から遠くアフリカ、オリエント地方まで売りさばき、莫大な富をもたらしていました。

皇帝フリードリッヒ3世は自慢の息子マクシミリアンを、このブルゴーニュ公国の公女マリーと結婚させる事で、このブルゴーニュの豊かな富を得ようと画策したのです。また相手のブルゴーニュ公国の方でも、皇帝からの申し出は拒否し難い魅力がありました。

当時このブルゴーニュ公国の領主はシャルル突進公という人物でしたが、彼は「突進公」の異名で呼ばれる様に猪突猛進タイプの激情的な性格で、その豊富な財力を背景にいつでも数万の強力な軍勢を編成出来た数少ない領主でした。その上彼は功名心も人一倍強く、現在の様な一公国の領主ではなく、立派な「一国の王」になることを夢見ていました。

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上がブルゴーニュ公国の領主シャルル突進公です。(1433~1477)彼は相手のハプスブルク家が当時は東の辺境オーストリアの田舎貴族に過ぎない事は百も承知でしたが、彼がその皇帝側の持ちかけた縁談に乗り気になったのは、相手が神聖ローマ皇帝であり、家柄としては皇帝家であるハプスブルク家の方が(一応)上だったからで、その権威の力を背景にドイツとブルゴーニュにまたがる強大な王になりたいという野心からでした。(いくら金を腐るほど持っていても、王として認められるには周囲にそれを認めさせるほどの権威が必要で、そのためには強力な「箔」を付ける必要があったのです。)

「金」が欲しいハプスブルク家と、「皇帝の権威」が欲しいブルゴーニュ家、両者の思惑と利害が一致し、縁談は成立するかに見えましたが、その後シャルル公があまりに無理な条件を皇帝フリードリッヒに突き付けたために話はこじれ、例によって忍耐強く状況の進展を待つ皇帝フリードリッヒに対し、業を煮やした短気なシャルル公は力ずくで事を進めようと1万余の軍勢で帝国内に侵攻し、1477年ナンシーの戦いでそれを迎え撃つスイス傭兵を主力とする2万の軍勢に敗れて戦死してしまいました。

さてこのシャルル公にはマリーという美貌の一人娘がいましたが、彼は男子に恵まれず、このままではブルゴーニュ家の断絶は時間の問題になってしまいました。さらにその混乱に乗じて犬猿の仲であったフランス王家が介入し、ブルゴーニュ公国を併合すべく軍勢を差し向けてきました。(もともとこのブルゴーニュ公国は、当時のフランス王家であったヴァロワ家内部の同族争いから、言わば「ケンカ別れ」して出来た国であり、ヴァロワ王家はかねてからブルゴーニュの領土と豊かな富を狙っていたのです。)

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上がブルゴーニュ公国の唯一の相続人マリー・ド・ブルゴーニュです。(1457~1482)彼女はこの時20歳で、先に述べた様に当時大変な美貌で知られ、さらに戦死した父シャルル公に似て男勝りの意志の強さを兼ね備えた女性で、ハプスブルク家以外にもヨーロッパ中の名だたる名家から求婚が絶えませんでした。

彼女はこの危機に、婚約者である2歳年下のマクシミリアンに手紙を書き、「私と結婚してください。そして私と私の国を貴方の力で救ってください。」と女性である自分から、男性であるマクシミリアンに求婚しました。この時マクシミリアンは18歳の立派な若者に成長しており、家臣からの信頼も厚い若き騎士となっていました。

こうして1477年8月に2人は結婚し、同時にハプスブルク=ブルゴーニュ同盟が完成しました。その頃ブルゴーニュ併合を目論むフランス王はルイ11世という人物でしたが、彼はフランス軍をブルゴーニュ領内に侵攻させていくつかの都市を奪い取り、さらに公国内の親フランス派の商人や市民を扇動し、盛んに揺さぶりをかけてブルゴーニュの崩壊を狙います。

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上が当時のフランス王ルイ11世です。(1423~1483)彼はフランス第4王朝であるヴァロワ朝第6代国王ですが、別名「蜘蛛」の異名を持つ奸知に長けた王でもありました。

若いマクシミリアンは、この強力な敵に対し敢然と立ち向かう事を決意し、オーストリアから連れて来た選りすぐりの家臣からなる軍団に、ブルゴーニュの女主人マリーに忠実な貴族、志願兵たち(マリーはブルゴーニュの領民に、「我らが姫」 と呼ばれるほど大変な人気がありました。)に、ブルゴーニュの豊富な財力を餌に集めた傭兵部隊を合わせた軍勢を組織してネーデルラントに向かいました。

戦いは2年の長きに及び、両軍は一進一退を繰り返しましたが、1479年8月、ギネガテの戦いでフランス軍を破り、ブルゴーニュで最も重要な富の集積地であるネーデルラントからフランス軍を追い払う事に成功しました。この戦いで敗れたフランス軍は昔ながらの重さ40キロ近い鋼鉄の甲冑姿の装甲騎兵を主力とするものでしたが、マクシミリアンはこの時代遅れな戦闘スタイルに見切りを付け、自らの帝国軍はかつて歴代ハプスブルクの当主がスイスで痛い目に合わされた農民兵の身軽な装備に学び、軍の主力を軽装歩兵による密集隊形に切り替え、大勝利を収めたのでした。

もちろんこの戦いで初陣を飾ったマクシミリアン自身の活躍も見逃せません。父皇帝フリードリッヒ3世が臆病で頼りなかった分、ハプスブルク家臣の彼に対する期待は大きく、彼もその期待に見事に応え、落ち着いた指導力と勇猛果敢で堂々たる若き騎士ぶりに、人々は彼を「中世最後の騎士」と称賛しました。

思うに「中世」とは、騎士の時代であり、数々の戦いでは重厚な甲冑姿の騎士たちが颯爽と活躍した時代でした。しかし時代はすでに、そんな騎士たちの馬上での一騎打ち戦法という伝統的なものから、多数の歩兵を効率良く集中運用した陣形と、限定的ながら大砲が使われる「近代戦」の時代に移行しつつありました。

マクシミリアンはそんな時代の流れを一早く読み取り、それを自分のものにしていく事で勝利しました。そしてもはや時代遅れとなった騎士の時代を終わらせ、新たな時代の幕開けを飾ったのは、マクシミリアン1世という皮肉にも「最後の騎士」と呼ばれた若者であったのです。

次回に続きます。
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テーマ : 歴史
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