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山下将軍の財宝の謎 2

みなさんこんにちは。

今回は前回に続き、山下将軍の財宝についてお話します。

昭和19年(1944年)9月、フィリピンの第14方面軍司令官に着任した山下大将は、間近にせまった米軍との決戦に備え、指揮下の総勢8個師団約30万(逐次増強され、最終的に13個師団その他およそ40万以上)の大軍に防衛体制の構築を急がせます。

img_225271_5869069_0.jpg

数十万の大軍を動かす大作戦です。当然武器、弾薬、食糧、燃料その他膨大な量の物資の調達に多額の資金が必要です。しかし、フィリピンで日本軍が発行した軍票は、前回お話した様に使い物にならず、新たな手段が必要になりました。そこで、いつの時代も不変の価値を持つ、金による物資調達が計画実行されました。

Marufuku_1943_Yamashita_Gold.jpg

そして作られたのが、上に載せた「マル福」金貨です。大きさは直径約3センチ、重さは31グラムで、日本軍はこの金貨をおよそ2万5千枚(重さ約1トン)ほど作り、山下将軍が着任する前にはマニラの司令部に保管されていました。(とても金貨と呼ぶには単純すぎる粗雑なデザインですが、これには理由があって、受け取った相手はどうせ鋳潰してしまうだろうから、それほど凝った物にしなくて良いという意向の様です。またこれらは日本国内で作られたらしいのですが、いつ、どこで、誰が作ったのか全く不明です。)

しかし、せっかく作られたマル福金貨ですが、全くと言って良いほど使われる事は無かった様です。その理由は定かではありませんが、恐らく米軍のフィリピン上陸が日本軍の予想以上に早く、使う暇すらなかったというのが実情ではないでしょうか。ともかく各守備隊は有り合わせの物資で米軍と戦う事になります。

その後戦局はわが方に著しく不利になり、マル福金貨は山下将軍と供にマニラからバギオへと移動します。その際に約1万枚を、山下将軍の命令で他の部隊に軍用金として振り分け、残り1万5千枚を山下本隊が持ってさらに北部へと移動しますが、この間も米軍との間で激しい戦いが繰り広げられていました。多くの金貨はその時に、始末に困った輸送部隊の兵によって、各地に分散して隠されたものと思われます。


そして終戦。
山下将軍は米軍に降伏する前に、まだ数千枚残っていたこの金貨を残存将兵に配ります。そしてそれらのマル福金貨の一部が、戦後それを貰った将兵の方々によって換金され、上の画像の様に今日に伝わっているとの事です。


このマル福金貨は現在でも、極めてわずかですがコイン商などで取引されており、価格は20~25万円ほどだそうです。但しご覧の様にとてもシンプルな作りで簡単に偽造出来てしまう事から、果たして流通しているもの全てが純金の本物なのかは分からないそうです。(切断したり、ドリルで穴を開ければ分かるでしょうが、コインとしての価値は無くなりますからね。)

さて山下将軍に話を戻します。終戦までフィリピン北部で頑強に抵抗していた山下将軍は、配下の残存兵力およそ4万(その多くはフィリピン各地に分散しており、彼の最後の直属の兵力は数千程度。)に停戦命令を出し、昭和20年(1945年)9月にバギオで降伏します。

General_Yamashita_Surrenders_convert_20140403235845.jpg

上が降伏するために幕僚らとともに山中から出て来た山下将軍です。(この時代の軍人の象徴である乗馬ブーツではなく全員ゲートル姿ですね。かつてまるまると太った巨体で有名だった彼も、げっそりと痩せています。いかにフィリピン方面のわが軍が飢えに苦しんだか分かりますね。)

Japanese_General_Tomoyuki_Yamashita_03.jpg

上の画像は降伏後、戦犯として収監される山下将軍です。実はこの少し前に、米軍によって念入りな「復讐」が行われています。かつてシンガポール戦で彼が降伏させた、イギリス軍のパーシバル将軍を呼び寄せ、降伏文書の調印式にわざわざ同席させたのです。(さらに米軍は、山下の絞首刑執行まで彼を立ち合わせています。)

Arthur_Percival.jpg

このパーシバル将軍(1887~1966)はシンガポール陥落後、日本軍の捕虜として台湾、満州に抑留されていた様ですが、日本の敗戦によって英国軍籍に一時復帰します。そしてこの降伏文書調印式の後しばらくして退役し、亡くなるまで英国で静かに余生を過ごしました。画像を拝見すると、痩せ型なせいか少し頼り無さそうに見えますが、実は意外にもこの方は名門大学出身のエリート軍人ではなく、一兵卒から中将にまでなった、言わばたたき上げの軍人なのだそうです。(士官学校から陸軍大学校の入校期と成績順で年功序列がちがちの日本陸軍なら有り得ませんね。)

034.jpg

上がバギオにおける降伏文書調印式の写真です。後姿ですが手前の右端が山下将軍、その左に彼の参謀長で、後の極東国際軍事裁判で絞首刑となる武藤章中将がいます。そして彼らと向かい合う連合軍側代表の、右から2人目のサムブラウンベルトをしたちょびヒゲ姿の人物がパーシバル将軍です。それにしても、かつての勝者と敗者が数年後に今度は逆の立場になって再会するなど、誰が想像出来たでしょうか? そしてこの時の双方のご心情は如何ばかりであった事か。時の流れの残酷さには想像を超えるものがありますね。

Japanese_General_Tomoyuki_Yamashita_02.jpg

223.jpg

上はマニラ軍事法廷の山下将軍と彼の弁護団で、下は証言台で英米式に右手を挙げて宣誓をする山下将軍です。

その後山下将軍は、大戦中の彼に対する123か条に及ぶ膨大な罪状によってマニラの軍事法廷で起訴されました。そして降伏からわずか5ヶ月ほどの明らかに意図的で短すぎる裁判によって死刑を宣告され、絞首刑となりました。

その背景には、連合国軍総司令官マッカーサー元帥の指示があった様です。マッカーサーにとってフィリピンは、総督だった父親の代から受け継いだ権益であり、開戦時の日本軍の猛攻によってフィリピンを追い出され、「アイ・シャル・リターン(私は帰って来る)」と言わしめた因縁の地です。(司令官でありながら、大勢の兵を見捨てて逃げ出した敗軍の将だと陰で言われ、先祖が英国貴族出身で、常にトップのエリートコースを歩んできたプライドの高い彼にとって、この事は終生の汚点でした。)

Douglas_MacArthur_smoking_his_corncob_pipe.jpg

やがて3年後、大軍を率いてフィリピンを奪還し、念願叶って汚名をそそいだマッカーサーにとって山下将軍とその配下の部隊は、彼の前に立ちはだかってそれを阻止しようとした憎むべき敵であり、何としても生かしておく存在ではなかったのです。(その事は、わが軍の戦死者の数を見れば分かります。フィリピン方面のわが軍は動員兵力の9割以上が全滅し、陸海軍の戦死者は実におよそ50万に達しています。繰り返しますが動員兵力ではありません。「戦死者」が50万なのです。)

ともあれ、かつて「マレーの虎」と恐れられた名将のそれが最後でした。そして彼の死によって、莫大な金貨の在り処も永久に分からなくなってしまったのでした。

山下将軍が直接係わった、厳密な意味での正等な「山下将軍の財宝」の話はこれが全部です。しかし、このマル福金貨は先に述べた様に日本で作られたものであり、日本軍が占領下の東南アジア各地から集めたものではありません。それではそれらの金塊などは一体どこに消えてしまったのでしょうか?それとも前回お話した小説の様に、全くのフィクションだったのでしょうか?


次回はその事についてお話します。
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