ブルゴーニュ戦争 ・ フランス王の謀略と皇帝父子の絆

みなさんこんにちは。

1479年のギネガテの戦いでフランス軍を撃破したマクシミリアン王子は、ブルゴーニュの最も重要な地域である北部のフランドルとネーデルラントの確保に成功しました。しかし敗れたフランス王ルイ11世は今だこの地域の併合を諦めておらず、状況は一時的な膠着状態に近いものでした。

そんな状況の中で、マクシミリアン王子と美貌の妃マリーの新婚生活が始まりました。そしてこの時に、マクシミリアンをはじめ、彼がオーストリアから連れて来たハプスブルク家臣一同はブルゴーニュとオーストリアとの政治、経済、文化あらゆる面での隔たりに驚かされます。

例えば経済の面において、ウィーンでの金銭感覚は中世初期の初歩的なものでしたが、商業の発達で貨幣経済が著しく発達していたフランドルやネーデルラントでは、大金の決済の効率化と安全のため、すでに複式簿記の制度が確立されており、行政面においては官公庁の機構が見事に整備され、確実な徴税体制が完成されていました。また、オーストリアでは犯罪人の処罰などろくに行われず、盗賊らの略奪、暴行傷害などの類いは野放図でしたが、ブルゴーニュにおいては裁判所が正常に機能していました。

さらに文化面においては、折りしもイタリア・ルネサンス全盛期の影響を受け、独自に発達したフランドル絵画に代表される優れた宮廷芸術文化が花開き、「芸術」などのカケラも無いオーストリアからやって来たマクシミリアン以下のドイツ人たちは、人の手で創り出したそれまで見た事も無い「造形美」というものに初めて触れ、その美しさに酔いしれました。マクシミリアンはこのブルゴーニュの優れた部分を全てに遅れた故郷オーストリアに持ち帰るため、貪欲に吸収し、学び取り、家臣たちにも大いにそれを奨励します。

さて彼をこの地に招いた妃マリーとマクシミリアンとの結婚は、親同士の完全な政略結婚でしたが、この若い夫妻は極めて仲睦まじく、フィリップとマルグリットという男女2人の子宝にも恵まれます。

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上がマクシミリアン一家を描いた絵ですが、後列の夫妻と長男のフィリップはともかく、妃マリーは結婚後数年で急死しているのに、なぜか彼女が存命中には生まれているはずの無い孫たち(後の皇帝カール5世や弟のフェルディナント1世など)の姿が前列に描かれています。

若い夫マクシミリアンは美貌の妻からフランス語などの他、多くの洗練された宮廷マナーを学び、また活発な性格であったマリーも乗馬や狩りに夫と盛んに同行するなど、若い2人は束の間の幸せな時間を供に過ごします。しかし、悲劇は突然やって来ました。1482年3月、妃マリーが妊娠中にもかかわらず乗馬に出かけ、落馬して重体に陥ったのです。

MAITRE~1

上がマクシミリアンの妃マリー・ド・ブルゴーニュです。結局彼女はブルゴーニュ公国の行く末を夫に託し、数日後に亡くなります。結婚から4年余り、まだわずか25歳の若さでした。

彼女の死は、当然夫マクシミリアンを悲しみの底に突き落としましたが、事はそれだけではありませんでした。彼女の遺言により、ブルゴーニュ公国は長男フィリップが継承し、マクシミリアンが摂政として就任しましたが、それを不服とする反ハプスブルクの都市や諸侯が一斉に各地で反乱を起こし、その混乱に乗じてギネガテの敗戦で煮え湯を飲まされたフランス王ルイ11世が再びフランドルに兵を差し向けてきたのです。

これらの一連の動きは全て、ブルゴーニュ併合を目論むフランス王ルイ11世の謀略によるものでした。この執念深い王は、ブルゴーニュの豊かな富と領土の獲得を虎視耽々と狙い続けていたのです。

マクシミリアンはこれらの敵と戦う戦費調達のため、フランドルに重税を課しましたが、この一方的な増税が大失敗となります。なぜならブルゴーニュの商人や領民を敵に回す事になってしまったからです。1488年2月、反乱グループがブリュージュにいた彼を拘束、寝込みを襲われたマクシミリアンは幽閉されてしまい、護衛の家臣たちは彼の目前で次々に広場で処刑され、打つ手を無くした彼は父である皇帝フリードリッヒ3世に助けを求めました。

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上が当時のブルゴーニュの中心であったブリュージュの現在の街並みです。(人口およそ11万)中世の街並みが良く保存されている事から世界遺産として登録されています。

ここで再び登場する神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世ですが、彼は前々回から述べている様に臆病な性格で、戦には不向きの頼りない人物でした。しかしそんな彼でも、マクシミリアンは愛する自慢の息子であり、彼は勇気を振り絞って恐らく生涯ただ一度だけ、自ら軍勢を率いて息子の救出に向かいます。

しかしいかに彼が神聖ローマ皇帝とはいえ、フリードリッヒにそれが出来るだけの大軍を集める事など出来たのでしょうか? 彼の直属の軍勢など側近の家臣や護衛兵をかき集めてもせいぜい数百騎程度で、「軍勢」と呼ぶには程遠い数です。 しかし実はこの時も、彼の長年の忍耐心が積み上げた年月と悪運の強さがものをいいます。 

フリードリッヒの臆病と優柔不断は、彼が皇帝に即位した当初から帝国諸侯に知れ渡っており、当然諸侯は彼を蔑んで軽く見ていました。しかしそうして年を重ねるうちに、この時すでにフリードリッヒの皇帝としての在位は40年を越え、最初はフリードリッヒを軽く見ていた帝国諸侯たちも、それだけの在位を維持し続ける皇帝に対して敬意には程遠いにしても、ある程度の評価をする様になっていました。

小心なフリードリッヒは帝国諸侯たちに対して、「皇帝として帝国軍の召集を命じる。」のではなく、「お願いする。」という形で兵を募ったところ、意外にも多くの帝国諸侯が集まり、数万の軍勢を組織する事が出来たのです。(もちろん皇帝にそれなりの「見返り」の要求を期待しての事ではありましたが。)

「帝国軍現る。」の報に反乱勢力はひるみ、内心おっかなびっくりの皇帝フリードリッヒは幸運にも集められた数万の軍勢の威容にものを言わせ、精一杯の虚勢を張って人質のマクシミリアン王子の釈放を迫りました。そしてなんとか交渉は成功し、マクシミリアンは釈放され、目的を達した帝国軍はフランドルから撤退します。彼は父のお陰でようやく自由の身となれたのです。

もしこの時フリードリッヒが何もしなかったなら、マクシミリアンはそのままフランス王の命で処刑され、その後のハプスブルク家の栄光と繁栄は無かった事でしょう。その後父子は再会の喜びを分かち合った事でしょうが、この救出劇は、「頼りない皇帝」フリードリッヒ3世の数少ない誇れるエピソードとなっています。

このブルゴーニュを巡る戦いはその後も続き、結局ディジョンを中心とするブルゴーニュ南部はフランスが併合し、フランドルとネーデルラントなどを中心とする北部はハプスブルク領とする事で1493年に決着し、100年余の栄華を誇ったブルゴーニュ公国はここに消滅しますが、この時からフランス王家とハプスブルク家の300年続く長い確執が始まる事になります。

次回に続きます。
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