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世界帝国への道 ・ ハプスブルクの政略結婚大作戦

みなさんこんにちは。

ブルゴーニュ公国の支配権をめぐる戦いで、フランス王ルイ11世の謀略によってブルージュで反乱勢力に捕えられ、一度は危機に陥ったマクシミリアン王子が、助けを求めた父皇帝フリードリッヒ3世の大芝居(というよりほとんど「はったり」でしたが、笑 その詳細は前回をご覧下さい。)によって救出されてからも、ハプスブルク家はフランス王家と事あるごとに争い、いつしかその関係は、互いを「宿敵」と呼ぶほどに悪化していきました。

ともあれ故郷オーストリアに帰国したマクシミリアンは、フランドルで商人たちを敵に回して失敗した経験から、今度は彼ら商人たちを積極的に味方に付けていく様になります。そんな中の1489年、同じハプスブルク家の一族でチロル地方の領主であったジークムントが、隣の領主であるバイエルン大公アルブレヒト4世から、なんと領地のチロルを抵当にして莫大な借金をしながら返済しない事から「大ゲンカ」になるという事件が起こります。

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上がチロル公ジークムントです。(1427~1496)彼の莫大な借金の原因は、自身の浪費と放蕩三昧からでした。

一方もう一人の当事者であるバイエルン公アルブレヒト4世は、マクシミリアンの妹の夫、つまり義理の兄に当たるので、彼は両者の争いの仲裁に入り、マクシミリアンがジークムントの負債の肩代わりをする代わりにチロルの領主となる事で決着します。

それから4年後の1493年、神聖ローマ帝国史上最も頼りない皇帝と言われつつ、歴代皇帝で最長の53年間もの帝位を維持し続けたマクシミリアンの父フリードリッヒ3世が77歳で崩御します。

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上が皇帝フリードリッヒ3世の棺です。現在ウィーンのシュテファン大聖堂に安置されています。彼については近年の研究で、その長い在位中にひたすら忍耐と我慢で、ハプスブルク家が世界帝国の主へと躍進するきっかけを地道に作った点などが見直されつつあります。

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またこのフリードリッヒ3世は「A・E・I・O・V」という謎の暗号の様な5つの文字を残し、宮殿の壁に彫らせたり、自らの公文書のサインや、身の回りの品々などにも好んでこれらを彫らせています。

この謎の5つの文字については研究者の間で、ラテン語やドイツ語の単語の略で、「オーストリアは全世界を支配する。」または、「オーストリアは不滅なり。」の意味を表すものという説が有力ですが、中には「ハプスブルク家の財宝のありかを示すものだ。」などとまるで映画の様な説を唱える人もいる様です。皆さんはどう思われますか?

マクシミリアンは父の死に伴い帝位を継承し、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世としてここに正式に即位しました。(彼の代からローマ教皇による戴冠式は行われなくなります。)

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上が皇帝に即位するマクシミリアン1世です。ローマ教皇から帝冠を頂くのではなく、幼子イエスを抱く聖母マリアから帝冠を授かる姿を描かせる事で、自らの帝位の神聖さをアピールしているものと思われます。

彼は帝位に付くと、都を負債の肩代わりの条件として継承したチロルのインスブルックに置き、アルプスに囲まれたこの街で借金返済のための経済改革に着手します。当時のチロルは法律も整備されず、貴族が勝手に税金を取るなど、宮廷内部の汚職や腐敗が蔓延していました。マクシミリアンは6年間でこれらの腐敗を一掃します。

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上がマクシミリアン1世が都を置いたインスブルックの現在の街並みと王宮です。(人口およそ12万)

また彼は保護した商人たちの助けを借り、全ての借金を返済する事にも成功しました。中でもフッガー家のヤーコブ・フッガーには銀の採掘権を与える事で、引き換えに莫大な収益を上げ、またチロルの鉱山から産出される豊かな資源を利用して、インスブルックに武器工場を建てると、優秀な職人たちを集め、これまでの戦闘でその重さに悩まされていた甲冑の軽量化を実現します。

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上がインスブルック旧市街に残る皇帝の「黄金の小屋根」です。(「黄金」といっても金の延べ板ではなく、銅版に分厚い金メッキを施したもので、それが2600枚以上も使われているそうです。)チロルの豊かな鉱物資源の採掘で大きな富を得た皇帝マクシミリアン1世は、この様な豪華なバルコニーや先の王宮などを建設し、祭りなどではここから市民の歓呼に答えたそうです。

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そしてこれがマクシミリアン1世が造らせた新型の軽量甲冑で、「フリューテッドアーマー」と呼ばれています。(重さはそれまでの40キロから、18キロまで軽くなったそうです。)

さて、こうして着々と足元を固めていったマクシミリアン1世でしたが、彼はかつてフランドルで自分を窮地に陥れた宿敵フランスとの決戦を諦めてはいませんでした。また当時南のイタリア半島では、ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィアといった都市国家がローマ教皇国と戦いを繰り返し、その裏にはイタリアへの野心を持つフランスが暗躍していました。そしてこれらの国々は、やがて「イタリア戦争」と呼ばれる数十年に及ぶ戦いを繰り広げていきます。

その様な情勢下で、当然マクシミリアン1世の神聖ローマ帝国もその戦争に加担していきました。彼は1496年、まずフランスの動きを封じるため、長男のフィリップ王子を当時のカスティーリャ・アラゴン(スペイン王国の前身)の王女と、娘のマルグリット王女を同じくその王太子と結婚させる事で、イベリア半島と南イタリアのナポリ・シチリア王国を手に入れます。(後のスペイン・ハプスブルク家がここに誕生したのです。そしてフィリップの長男カルロスが、成長後カール5世としてスペイン王兼神聖ローマ皇帝として君臨する事になります。)

それだけではありません。彼はその2年前の1494年に自らミラノ公国の公女ビアンカと再婚し、これによりミラノ公国を支配下に置きます。(これはフランス王がイタリア半島に南下するのを阻むためと思われます。)さらに帝国の東にも目を向け、長男フィリップと結婚させたスペイン王女との間に次々と子が生まれると、彼にとっては孫に当たるその子供たちのうち、次男のフェルディナントと三女のマリアをハンガリー王家の子女と結婚させました。 

このハンガリー王家との縁組によって、ハプスブルク家はハンガリー王国の領有権を得、これが後にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立する要因となります。

「戦争は他国にさせておけ、幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚せよ。」

上の言葉はどこの誰がいつ頃から言い出したのか不明なのですが、ハプスブルク家当主である皇帝マクシミリアン1世の徹底的な婚姻政策を表した言葉です。この様に子や孫を他国の王侯と政略結婚させ、戦わずしてその国の王位と領有権を得る、(つまり乗っ取る)という独特な手法で、気が付けばハプスブルク家は、神聖ローマ帝国という名ばかりの連合国家の中の、オーストリア大公という辺境の一領主から、ハンガリー、ミラノ、ナポリ・シチリア、ネーデルラント、スペイン、そして大航海時代の到来で強大な海洋王国となったそのスペインを通し、同国が世界に広げた植民地をも支配する「世界帝国」の主となっていくのです。


次回に続きます。

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