中世の終わり ・ 宗教戦争とオスマン帝国の影

みなさんこんにちは。

神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世が、自らの子や孫たちを各国の王家と政略結婚させてハプスブルク家の支配地を着々と拡大させていた頃、その皇帝の長男にフィリップ王子という人物がいました。

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上がそのフィリップ王子です。(1478~1506) 彼は父皇帝よりも、美女として名高かった皇妃の母マリーの血を引いて女性と見まがうほどの大変な美青年であったそうで、そのため「フィリップ美公」、または「端麗公」と呼ばれています。彼はそれだけでなくスポーツ好きで話術も巧みであったため、女性たちにとてもモテたそうです。(最高の名門皇帝家の長男で、金持ちの美男子で、スポーツマンで、会話も面白い、これだけ好条件が揃っていればモテないはずはありませんね。うらやましい事です。笑)

彼は父帝の命によりスペイン王女フアナと結婚し、そのフアナとの間に2男4女、6人もの子に恵まれますが、ある時スポーツを楽しんだ後に飲んだ水に当たって28歳の若さで急死してしまいます。(その不自然さから毒殺説も疑われています。)

若い美貌の夫の急死に彼を熱愛していた妃フアナはそのショックで正気を失い、「フィリップが生き返る。」などというくだらない占い師の言葉を信じて彼の棺を埋葬せずに馬車に乗せ、数年もスペイン国内をさ迷い歩き、見かねた当時の父王フェルナンド2世は娘を修道院に幽閉してしまい、後に神聖ローマ皇帝兼スペイン王となる息子のカール5世も母の処遇には困り、結局亡くなるまで40年以上もの間修道院に幽閉され続けます。そのあまりの狂気ぶりから 「狂女フアナ」 と今日まで語り継がれています。

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上が「狂女フアナ」の肖像です。(1479~1555)長い間こんな呼び名をされてきた彼女ですが、近年の研究では、彼女の精神疾患は物事が自分の思う様に上手く進まないとか、考えの合わない人物などに対して激高する「ヒステリー」程度で、伝えられるほど大げさなものではなかったのでは、といわれています。ただ夫フィリップに対する彼女の熱愛の情だけは疑いの余地は無い様ですね。哀れな女性です。

さて、長男夫婦の不幸もありましたが、皇帝マクシミリアン1世の帝国拡大政策は着実に進んでいきます。フィリップ夫妻の6人の子供たち、(皇帝にとっては孫たち)がすくすくと成長し、4人の孫娘たちは後にそれぞれポルトガル、デンマーク、ハンガリーの王家に嫁ぎ、2人の孫息子たちは、やがて神聖ローマ皇帝位とスペイン王位を継がせる予定であったからです。

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上が晩年の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の肖像です。彼はそれまでの騎士同士の戦いから、歩兵と銃火器の戦いへの転換を図った改革者でしたが、そのために馬から下りた大量の騎士たちが、それまでは一部のはみ出し者の集まりの職業と蔑まれていた「ランツクネヒト」(ドイツ語で傭兵)に転身しました。そのため彼ら傭兵たちは戦闘への参加の代償として、領地ではなく金銭での支払いを要求したので、それ以後の戦いではそれまでとは比較にならない莫大な戦費がかかる結果を招き、晩年は皇帝自身も帝国内外の大小の敵との戦いに明け暮れ、その戦費調達による多額の負債が皇帝を悩ませました。そのせいもあってか体調も崩す事が多くなり、やがて1519年に「中世最後の騎士」といわれ、ハプスブルク家を世界帝国の主へと押し上げた偉大な皇帝は莫大な負債を残し、60歳で亡くなります。

そのマクシミリアン1世の崩御に伴い、新たに神聖ローマ皇帝となったのが19歳の孫カールでした。

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上が新皇帝カール5世の少年時代の肖像です。(1500~1558)彼こそ正に祖父マクシミリアン1世が創り上げた「ハプスブルク帝国」を象徴する人物でした。彼は祖父からドイツ神聖ローマ帝国を、父フィリップからはネーデルラントを、母フアナの父フェルナンド2世からはスペインとナポリ・シチリアを受け継ぎ、さらに皇帝即位後に手に入れた領土や称号など、その肩書きの多さと来たら枚挙に暇がありません。(帝位1つ、王位4つ、大公位1つ、公伯位などは15にのぼります。)

このカール5世(スペイン王としてはカルロス1世となりますが、ここではカール5世に統一させて頂きます。)については、歴史に詳しい方であればご存知の様に「スペイン王」というイメージが強いのですが、(かくいう自分だけでしょうか?笑)元々彼は父フィリップ美公の領国であったフランドルで生まれ、その後17歳までネーデルラントで育ちます。その前年母方の祖父フェルナンド2世の死に伴いスペイン王位を継承しますが、それまではスペイン語など全く話せず、スペインに行った事も無かったそうです。(スペイン王になってからは、熱心に勉強して完璧に話せるようになり、スペインを見事に統治しましたが。)

彼は先に述べた様にネーデルラントで生まれ育ったために終生この地に愛着を持ち、王位を継いで初めてスペインに行った時の同国の荒涼とした風景と文化の遅れに驚き、スペイン王ではありましたが実際はそのスペイン自体はあまり好きでは無かった様です。またネーデルラント地域は位置と距離的にフランスに近い事から、カールはフランスとパリをこよなく愛し、そのため彼が日常最も良く使っていたのはフランス語で、ドイツ神聖ローマ皇帝でありながらドイツ語はあまり上手くなく、ナポリ・シチリア王でもありながらイタリア語も苦手だったそうです。

彼の言語に対する考え方を表す言葉に次のものがあります。

「スペイン語は神への言葉、フランス語は男性への言葉、イタリア語は女性への言葉、ドイツ語は馬への言葉だ。」

何だか当時の各国の状況を如実に表していますね。


彼が皇帝として即位した時代、ヨーロッパはおよそ千年続いた「暗黒の中世」と呼ばれる時代から、近世へと移行しつつある激動の時代を迎えていました。

時は大航海時代、コロンブスの新大陸発見によってスペイン・ポルトガル二大海洋王国が競って南北アメリカ大陸やアフリカ沿岸部、インドや東南アジアに広大な植民地を広げ、金銀宝石、香辛料、その他それまで手に入らなかった様々な珍しい産物が船でヨーロッパに大量に運ばれ、それらの海上貿易で莫大な富がスペイン・ポルトガルにもたらされました。

また文化面においてもイタリアのフィレンツェやローマを中心としてルネサンスが花開き、多くの天才芸術家たちによって絵画、彫刻、建築など、数え切れない傑作が生み出されていきました。

しかしこの様な光の部分とは対照的に、影の部分ももちろん存在します。最もそれが顕著だったのは宗教面で、当時カトリックの総本山ローマ教皇庁の腐敗と堕落は著しく、特に歴代のローマ教皇が自身の享楽と統治や政策資金の捻出のため、その都合の良い財源として大量に発行した、金で罪を許す「免罪符」に端を発する神学者ルターの宗教改革の嵐が瞬く間に全ヨーロッパに広がり、カトリックの保護者である皇帝カール5世も、反カトリック勢力(プロテスタント勢力)との長い戦いを強いられていきます。

またもう一つの影は、遠くはるか東のオリエント地域から迫りつつありました。それは異様に大きなターバンを頭に巻いた強大な集団、イスラム世界の覇者、「オスマン帝国」の脅威です。 彼らはこの時期地中海の制海権を握り、更なる領土獲得のため、ヨーロッパへの侵略を狙っていました。

若き皇帝カール5世の行く手には、これら全てとの激しいせめぎ合いが待ち受けていたのです。

次回に続きます。
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